早朝と孤独
あかりが、最初に鏑木の心に入ってきたのか、それとも、鏑木があかりの気持ちの中に入っていったのか、意識はなかった。二人とも、
「相手が好きになってくれたから、相手を好きになった」
と思っている。
実際にそんな感情がありえるはずもなく、必ずどちらかが相手を好きになったことに相違ないのだろうが、二人とも、よく分かっていないのは、却って好都合だったのかも知れない。
もし、分かっていれば、
「好きになったのはあなたの方じゃない」
「いや、君の方だよ」
と、普通の状態だったら、まるで、
「痴話喧嘩」
の、ようなものだとみられるだろうが、普通でなければ、お互いの詰りあい、ののしりあいとなり、結局、お互いの距離を広め、決して修復することのない事態になることだろう。
それはそれで悪いことではないのかも知れないが、お互いを罵るということが、どのような悲惨な状況を引き起こすのかというと、それは、何の関係もない人をも巻き込むことになるからである。
何ら関係のない人というのは、それだけ二人のことを知らない人ということもあり、どちらかのことを知っていれば、
「相手が悪いんだ」
と思わせることになり、まったく関係のない人間を、無意識にこの謂われなき論争に引き込むことになるのではないだろうか。
そうなると、
「恋愛というものは、自分たちだけではなく、まわりをも引き込んでしまうことになるのだ」
ということになってしまうのだった。
最初は、お互いに、
「好きになった相手同士でないと、本当の恋愛なんかできっこないよな」
と思っていたようだ。
二人とも、大学に入学するまで、彼氏はおろか、異性の友達もいなかったのだ。彼女や彼氏がいない友達にでも、異性の友達はいるものであって、特に大学に入学してからできなかったというのは、珍しいことだった。
そんな二人が知り合ったのだから、
「二人の間に化学変化が起こったのではないか?」
と言ってもいいだろう。
「化学反応なのだから、その効果が幅広く膨れ上がってしまうのも仕方がない」
ということで、まわりを巻き込むことになったのも、無理もないことではないかと考えるのだった。
恋愛というものは、そういう意味では、戦争に似ているのかも知れない。
好きになるということよりも、好きになってもらうことの方を優先していると、間違った方向に行くかも知れない。
「好かれたから好きになる」
というのは、本当は自分が好きではなかったということだろう。
戦争であっても、
「攻撃されたから、攻撃した」
という方が、正当性も大義名分もある、自分から攻撃すると、まわりから非難轟轟である。
アメリカのルーズベルトのように、
「先に相手に攻撃させた真珠湾」
この時点で、アメリカの参戦は大きな大義名分だったのだ。
やり方によって、相手がどのように感じるか? これが、戦争を引き起こす上でも、恋愛を自分の大義とするかということになるのだろう。
鏑木が、寺を継ぐことに疑問を感じるようになったのは、それから少ししてからのことだった。
最初の原因はなんだったのか分からなかったが、どうもその頃に、それまであまりなっていなかった躁鬱状態が襲ってきたことが、遠因だったのかも知れない。
中学時代には頻繁にあった躁鬱状態、それも大学受験を控えた二年生の後半くらいからなくなってきた。
受験戦争は、自分の中で、本当の地震だった。
「戦争というのは、自分との闘いであり、他人を意識してしまうと、なかなかうまくいかない」
なぜなら、受験というのは、人数制限であり、テストの成績ではない。
つまり、全体の平均点がよければ、いくら最初に設定した合格ラインが上がってしまい、せっかく自分では達成したと思っている点数に至っても、順位で落ちてしまうので、うまくいかない、それはきっと自分がまわりを意識しているからであろう。
必要以上なまわりへの意識は、間違った先入観を生んでしまい、それが、間違った受験勉強へといざなうことになるだろう。
受験戦争において、気になっていたのは、よく、ファミレスなどで、皆が一緒に勉強しているス姿だった。
それは、勉強する姿勢に不真面目さしか見えていないような気がして、ただ、一人だと孤独に苛まれてしまうから、誰かと一緒にいることで、その孤独感を払拭しようと考えるものなのだろうか?
もし、そうだとすれば、本当の勉強の意義というのが、分からなくなってしまうような気がするのだ。
勉強というのは、人と一緒にして身につくものだとは思えない。まったく同じ目標を持って、同じところを目指しているのであれば、その意義も分からなくもないが、逆に、それが、
「受験勉強のためだ」
ということになると、まったく逆の意味を持ってしまう。
同じ目標を持って勉強しているのであれば、受験勉強においては、ライバルなのだ。
これが合奏の期末テストなどであれば、
「合格ラインは決まっていて、それを皆が突破すれば、皆が補修も受けることもなく、合格ラインを突破したということになるが、これが受験だと、前述のように、成績のラインではなく、合格者という人数となってしまうので、自分以外の同じ目標を持った人は、すべてライバルということになる。
何と言っても、
「人よりも一点でも多く取らなければいけない」
ということだ。
二十人が募集人数で、自分が二十人目なのか、二十一人目であるかということが合否の違いであり、もし、二十番目の人がその友達だったとすれば、地団駄を踏んで悔しがったとしても、すでに後の祭りにしか過ぎないことになるであろう。
だからこそ、受験戦争は難しい。孤独にならなければならず、仲間などどこにもいないといってもいい、
「自分との戦いだ」
と言ってもいいだろう。
そんな時ファミレスで誰かと一緒に勉強などということはありえないのだ。
孤独には慣れているつもりだった鏑木は、最初からまわりを敵だとみなし、ライバル意識をしっかり持っていたことで、比較的受験勉強も苦になることもなかったのだが、その間、時曽木、躁鬱症に悩まされた。
「躁鬱症は、受験勉強からくるものではない」
と自負していたが、それ以外には感じられなかった。
それまでの躁鬱症は、何が原因なのか分かっていなかったが、いくつか考えられる中からその原因があると思っていた。
しかし、今回の大学受験が絡んでいる間が、どこから来るのかということがまったく分かっていなかった。
ちょっと考えれば分かるはずのそんなことまで分かっていないということは、それだけ、受験というものが、躁鬱症というものと無関係だと思っていたのだろう。
それが、受験勉強を、戦いだとは思っていたが、
「孤独な闘いだ」
という自覚を持っていなかったからだと思うようになった。
「孤独っていったい何なんだ?」
と、考えるようになっていたのだ。
受験勉強を最初の頃は、嫌悪していた。
「どうして、ここまでしながら、受験しなければならないのか?」
ということであるが、
「受験勉強が、特に押し付けのようなものだと感じたのではないか?」
と思うようになった。