早朝と孤独
などということはないだろう。
ただ、他にやりたいことがあったとして、それを捨ててまで、寺を継がなければならないとして、その運命を受け入れるのだとすれば、自分のやりたいことをこれ以上続けて、抜けられないようなことにならないようにしようというのであれば、その気持ちも分からなくもない。
ただ、それはお寺の坊主に限ったことではない。他の仕事だってそうだ。その時にどう考えるかは、その人の性格によるものだろう。
しかし、どちらにしても、
「家を継ぐ」
ということは、将来の地位は保証されているということであるが、それと同時に、それ以降の継いだ先の運命は、まとめて自分にあるというプレッシャーもあることだろう。
継いだものが会社であれば、将来の社長は保証されている。そして、鏑木のようにお寺であれば、住職の地位も保証されている。
ただ、それまでに、他の人たちとは違った道が用意されている。帝王学のような、厳しい修行なのかも知れない。
ただ、それに関しては、最初から家を継ぐということが、親によってレールとして敷かれていたのであれば、将来のことを真剣に考えた時、どの道を進むかということで大いに悩むことだろう。
他にやりたいことができたのであれば、
「ここまで敷いてくれたレールの上を離れて、一から築き上げていくということがどれほど大変なことなのか分かっているだろうから、どちらを選ぶかということは、かなりの選択になることであろう」
と考えられる。
会社の社長と言っても、雇われ社長とは違い、同族会社での、世襲によって成り立っている会社であれば、子供心に、親が社長であれば、会社の人たちから、
「坊ちゃん」
などと言われて、ちやほやされているように見えたとしても、本人にとってはそれどころではない、
家では、親から、帝王学という名の、英才教育を受けているのであり、それはかなりの厳しさであろう。
少なくとも、最初の心構えであったり、精神的な洗脳というものは、かなり深いところの精神状態の誘導でなければいけないので、気持ちよりも、肉体的なことからくる、精神面を鍛え上げるという意味合いもあり、それこそ、仏門などにおける、
「修行」
と言ってもいいかも知れない。
特にまわりは、ちやほやされているだけだと思っていると感じているだけに、そのプレッシャーや、ギャップは、かなりのものがあるに違いない。それは、矛盾や理不尽さを抱え込んでいるのと一緒ではないだろうか。
仏教などでは、如来になるために修行をしている方々を、
「菩薩」
というそうだ。
菩薩というと、弥勒菩薩、観世音菩薩、などといろいろいるが、そのうちの弥勒菩薩という菩薩様は、
「未来仏」
であるという。
現在の仏である、お釈迦様の入滅後、五十六億那奈千万年後の未来にこの世界に現れ、悟りを開き、多くの人々を救済するということで、
「未来に現れる仏」
ということになるのだ。
これは、鏑木が勝手に考えたことだが、
「それだけ、悟りを開くには時間がかかるということだ。そんなことが、今の自分にできるはずもなく、菩薩様と呼ばれている人でも、五十億などという想像を絶する天文学的な数字を生きなければ悟ることができないというのだ。
そもそも、人間の寿命が百年もないというのに、果たして、その時代のこの世はどうなっているというのか、想像もつかない。
この気が遠くなるような数字は、、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する」
と言われているようだ。
それだけ、この世と、それ以外の世界には、隔たりがあり、この発想は仏教だけではなく、ギリシャ神話や、聖書の世界にもあるものではないだろうか。
孫悟空などの話で、数万年前などという発想が簡単に出てくるのも、分かる気がする。
しかし、考えてみれば、それらの話は、基本的に人間が作ったものである。それぞれの時代、それぞれの社会に、天文学的な数字を別世界として、簡単に解釈するような頭が、どこまであったのかということを考えると、世の中というものが、いかなることから成り立っているものなのか、知ると知らないでは、確かにあの世とこの世を考えるうえで、まったく違うものであろう。
人間とは、都合よく頭の回転ができているもので、
「何も問題のない時は、自分たちのことだけを考えていて、たまに、他の人を見る余裕が出てくるが、それはあくまでも、中心は自分にあるのであって、余裕というものは、自己満足に過ぎないのではないか?」
と考えられる。
そして、何か問題が起これば、最後には自分だけのことしか考えない。なぜなら、まず考えることは、自分と自分のまわりのことであり、当たり前のように、それ以外の人のことは考えようとはしない。
「それが人間であり、人間が人間たるゆえんではないか?」
と考える。
もし、これが仏や宗教の世界であれば
「人間は修行が足りないから、そのような考えに至るのだ」
と言われたとすれば、
「その修行っていったい何なんだ?」
ということになる。
弥勒菩薩のように、五十数億年などという信じられないような機関、どのような修行をしないと、釈迦のようになれないのかということであれば、人間の寿命も、五十数億ないといけないだろう。
もちろん、勝手な数字の組み合わせによって作られた年数などで、ここにこだわる必要はないのだろうが、人間世界と兜率天という世界がどれほど違うのかということを考えさせられるというものだ。
だとすれば、人間ができる修行などというのは限られた範囲でしかなく、何も自分が釈迦になる必要もない。
きっと、仏教の世界の仏さまたちもそんなことを望んでいないだろう。
聖書や神話などで、人間が神に近づこうとした時に、その制裁によって、どれほどのひどい目に遭うのかということを知らされると、お寺を継いだからと言って、仙人になったり、仏様に近づこうなどという無理をする必要はないのだ。人間がその無理を、傲慢な方に考えるので、聖書や神話に書かれているような悲劇が考えられるかのように、記されているのだろう。
それを思うと、
「お寺を継ぐ」
ということが、それほど厳しいことだと考えることもないだろう。
そんな中で、友達に連れていってもらった風俗だったのだが、感想としては、
「どうして、今まで行こうと思わなかったんだろうな?」
ということであった。
「彼女ができれば、風俗にいく必要もない。彼女を作ればいいんだ」
と思っていたが、実際にはそうではなかった。
実際に初めて風俗に行くまでは、確かに、罪悪感を持っていて。
「彼女がいないから、性欲を満たすためにいっていると思われるのも嫌だし、何よりも自分がそう思うのが嫌だった」
と感じることであった。
しかし、それから実際にすぐに彼女ができた。自分から好きになったわけではなく、相手の方から、
「あなたのことが気になったので、思い切って告白してみた」
ということであった。