早朝と孤独
そこを勝手に余計なこととして考えるから、ロクなことにはならないのだ。
その時の鏑木には、好きになった人がいた。だが、それが本当の気持ちだったのかどうか、正直、時間が経つにつれて、自分でも信じられない気がしてきた。
好きになったと思っている相手は、とにかく気になる相手ということで、ムズムズした感覚があった。
その時に感じたのは、
「これは、愛情ではなく、性欲からくる感情なのではないだろうか?」
という思いであった。
確かに性欲からくる感情もいけないわけではない。人間にとっての性欲というのは、
「種の保存という大切なことだ」
という理屈もあるくらいで、なぜ、悪く言われるのかが、よく分からないくらいだった。
だが、自分に、
「性欲から、愛情を感じてしまったかも知れない女性がいる」
と思うと、好きになったことが、まるで罪悪のように感じられたのだ。
その理由は、
「好きになったということを大げさに考えてしまって、性欲を言い訳のように考えるように、好きになった相手をどうして好きになったのか」
ということを、突き詰めようと考えたからだった。
別に悪いことでもないのに、変な罪悪感のようなものを感じてしまったことで、人を好きになるということが、自分にとって罪悪感を伴う、まるで悪いことのように感じてしまったことが、自分で許せなかったのだ。
「性欲があるなら、性欲は性欲として、処理しないといけないんだろうな」
と思い。性欲に罪悪感を覚えたのと同じで、恋愛感情にも罪悪感を覚えた。
そうなると、逆に、
「性欲に罪悪感を払拭させるだけの何かがなければ、恋愛感情というものを、罪悪感とは別のものだと考えさせるものがなければ、俺はずっと恋愛感情など持てることなどないのではないか?」
と考えた。
どうしても、罪悪感という思いが強いのは、
「俺の将来は、寺の坊主だ」
という意識があるからだ。
「学生時代までに、自分の罪悪感や、煩悩のような世俗的なことは、なるべく、拭い去るようにしておかないといけない」
と考えていたのが、自分が、このまま放っておけば、一番苦しむのは自分だと考えたからだ。
苦しんでいる人間に、他の人を救うことなどできるはずもない。それが、罪悪感を意識した最初だったのだ。
せっかく大学生になったのだから、何かを楽しむことが大切な気がした。
最初の頃はまったく逆で、
「寺の坊主になるのだから、今、楽しいことを覚えてしまって、そこから抜けられなくなったらどうしよう?」
という思いが強かった。
自分のまわりにいる人が、
「もし、自分と同じ立場になったら、どう考えるだろう?」
と考えると、
「たぶん、後先を考えずに、好きなことをしようと思うだろうな?」
という思いであった、
だが、それは自分にはできないと思った。
「俺の場合には、まず好きでもないものを先に食べて、好きなものを最後に残しておく方だからな」
と考えたからだ。
最後に好きなものを食べれば、最後に残ったイメージのまま、入ることができると考えたからで、その方が、一番後悔が少ないと思ったのだ。
だから、まず考えたのは、
「なるべく後悔を最小限にとどめよう」
という無難な考え方だった。
そうなると、楽しいことを覚えてしまい、そこから抜けられなくなるようなことはしたくないと思ったのだ。
確かに、楽しいことを知らずに俗世から身を引くというのであれば、
「できなくなる前に、できるだけしておこう」
と考えるようになった。
だが、これは、究極の考え方だと思った。
同じ発想で、今度はまた究極な発想をしてみた。
「自分が、もし病気で、余命宣告されたとすれば、自分はどうするだろう?」
という考え方である、
これも人によって違うだろうが、最初の頃は皆が考えるのと同じで、
「この世でやり残したことがないように、できるだけ楽しいことをしていこう」
と考えることであろう。
しかし、
「本当に死というものを意識して、それまでに時間的な限界があるのだとハッキリ知らされて、本当に何かをしようという気力があるのだろうか。テレビドラマなどでは、余命を知らされた人は、残された時間で、自分にできることをしようという人の美談がテーマとして作られているが、それを美談としてではなく、皆が考えることであろうという目で見れば、最初は、まったく違和感なく見ることができるだろう」
と思っていた。
しかし、本当の死というものを考えた時、本当に自分の死を受け入れられるのだろうか?
余命として宣告された期間に、答えが出るわけもない。たとえ、寿命が半永久であったとしても、その答えを見つけることはできないだろう。
「お前は、その答えが見つかるまで、永遠に探し続ければならない」
などと、神から言われたのであれば、きっと、寿命が半永久的なことを呪うに違いない。
確かに、余命を宣告され、その期間が決まっているとした場合に、この世の理不尽さを身に染みて感じるであろうが、寿命がなく、いつまでも生き続けなければならないという苦痛もあるということだ。
「人生を生きるということは、生きることの意義が相まって、生き続けることが幸運なのだ。生きる意味が分からずに、ただ生き続けなければいけないというのは、苦痛でしかなく。生きる意味も、生き続ける意味も、自分にとって何なのかということを、果たして自分で理解することができるのか?」
と考えた時、寺の坊主を目指している鏑木には、大いなる矛盾と違和感が、自分を包みこむことを考えるのだった。
「だから、死を前にしても、死なないということがある程度確定しているとしても、どちらが苦痛なのかと言われる、正直分からない」
と答えることだろう。
どちらがその人にとって苦痛なのか? というよりも、それ以前に、
「苦痛というのは何なのか?」
ということを、神様は教えてくれるというのだろうか。
本当は、そんな大げさなことではないのかも知れない。
どちらかというと、
「坊主になったからと言って、本当にすべての欲望を抑えなければいけないのか?」
ということではないだろうか。
坊主になったからと言って、確かに欲望をすべて抑えなければいけないわけではないのは、父親を見ていると分かる気がする。
食事では普通に肉も食べているし、酒も時々であるが飲んでいる。
そもそも、父親は酒が好きである、時々、近所の人を呼んで、酒を呑んだりしているのを時々見たりしていた。
それに、セックスを禁止などできるわけもない。何しろ、奥さんもいて、自分という子供だっているではないか・
そもそもセックスが禁止であるならば、
「種の保存」
などできるはずもなく、代々寺を存続させることも不可能だ。
「禁欲と、寺の存続のどっちが大切なのかを考えると、考えていること自体が本末転倒だ」
ということが分かるではないか。
禁欲というのは、すべてを抑えるわけではなく、欲望に負けてしまって、普段の生活ができなくなることを戒めるという意味で考えればいいのではないだろうか。
だとすれば、
「この世の春を犠牲にしてまで、寺を継がなければならない」