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早朝と孤独

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「矛盾というものを、強引にでも、自分に納得させようとすると、何か辻褄を合わせようとするものだ。それは、、一つであってもいい。一つの歯車が噛み合うだけで、自分が納得できることであれば、そこに矛盾が生じていても、強引にでも納得させていい」
 という考えに至ってしまう。
 これが、デジャブの、辻褄を合わせようとする考え方であって、時系列に沿って考えようとする自分を、いつの間にか、辻褄を合わせる方向に向かわせることで、デジャブという現象を作り出し、辻褄合わせの言い訳にしようと考えるのだろう、
 だが、
「矛盾の矛盾というのも、また矛盾である」
 と言えるのではないか。
 マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるのだが、矛盾というものは、そうはいかない。
 マイナスというのは、あくまでも、プラスがあってのマイナスである。相対するものがあってこその計算なのだが、矛盾というものには相対するものは存在しない。
「対象」
 とされるものはあるかも知れないが。それはあくまでも、鏡に映ったものであり、重ね合わせることで、正常になるという考えは、かなり強引なものであり、納得できるものではない。
 鬱状態自体が、辻褄の合っていないことであり、辻褄の合っていないことの対象に、まったく正反対の躁状態があるというのだから、これこそ、矛盾を感じさせるというものだ。
 マイナスというものを、いかに鬱状態と結び付けて考えることができるかということが分かれば、少しは、躁鬱状態の解明が自分の中でできたのではないだろうか。
「鬱から、躁に移り変わる時、ここまでトンネルを出るまで時間がかかってしまっているのに、意識としてはあっという間なのだ」
 それが矛盾であり、デジャブの原因なのかも知れない。
 そんなトンネルを抜ける時が、躁鬱症の時には分かるのだ。
 そもそも、躁鬱症というのは、躁状態であっても、鬱状態であっても、大体、二週間程度のものだった。
 鬱状態から躁状態に変わる時は、ゆっくりであるが、その間に、通常状態というのは存在しない。
 しかし、逆に躁状態から鬱状態に変わる時というのは。結構あっという間に変化をするのだが、その間に普通の状態が存在する。だから我に返る時というのは、鬱状態に入る前であり、それだけに、鬱状態が目の前にあるということを意識ができる。
 そのかわり、逆の鬱状態から躁状態に変わる時は、トンネルという意識が存在することで、理解できるようになる。
 つまり、このトンネルというのは、デジャブにおける辻褄を合わせるための媒体のようなものだといえるのではないだろうか。
 二重人格と、躁鬱症、同じように見えるのだが、本当に同じなのだろうか。
 二重人格というと、最初に思いつく事象としては、
「ジキルとハイド」
 の話ではないか。
 普段は、普通の科学者なのだが、自分の開発した薬を飲むと、別人になってしまうという話だが、これはあくまでも、架空小説である。
 そもそも二重人格というのがどういうものなのかということなのだが、子供の頃にそんな発想があったわけでもなく、ただ、
「躁鬱症のようなもの」
 という意識の方が強かった。
 それは、前述のように自分が躁鬱症であり、自分で意識できているということから、二重人格というイメージが湧いてきたのだ。
 ジキルとハイドのお話における二重人格というのは、開発した薬によって作られたもので、それが本当だったのかどうか分からない。
 もし、本当の二重人格ではなかったとするならば、ハイドという性格は作られたものであり、開発した薬は、一つの性格を作り出すものだということになる。そうなると、ジキル博士の行動から、察することとして、
「ジキル博士の開発は、フランケンシュタインと同じではないか?」
 ということになる。
「理想の人間を作ろうとして、間違って怪物を作ってしまったフランケンシュタイン」
 そして、
「自分の好奇心と、解放感から、もう一つの人格を作り上げようとしたジキル博士」
 それぞれに目的は違えども、やっていることは同じである。
 しかし、結論としては、お互いに作り出してしまったものから、苦しめられることになるのは同じことだった。
 フランケンシュタインの話は、二重人格などではなく。自分たちの役に立つはずのものを作ろうとして、失敗したことなのだが、そこに、自分の分身という意識はなかっただろう。
 ジキル博士の場合は、自分が別の人格となって、今まで味わったことのないものを味わいたいがために、別の人格を作り出すことで、本当の自分を安全な場所においておくための、薬の開発だったのだ。
「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作り出すものなり」
 という言葉を聞いたことがあるだろうか?
 ある大学の創始者が、提唱した言葉であるが、
「どんなに知恵があったとしても、神様のような倫理や道徳がそこになければ、どんな冷えであっても、悪魔でしかない」
 というような意味である。
 科学万能で、開発競争を繰り広げていた時代に、一つの人間至上主義、さらには、科学万能主義において、その教育は、
「知恵ある悪魔」
 を作り出してしまうのではないか?
 ということであった。
 つまり、
「ジキル博士や、フランケンシュタインを作り上げてしまうのではないか?」
 ということに繋がるのではないだろうか?
 二重人格の片方が、この、
「知恵ある悪魔」
 として君臨すれば、世の中がどんなことになるか、想像もつかないだろう。
「知恵ある悪魔」
 というものの怖さは、身に染みて分かっている。
 そもそも、核兵器開発など、この
「知恵ある悪魔:
 が起こしたものだ、
 そういえば、この言葉は、某特撮番組で、防衛軍の隊長が、隊員に言った言葉だった。
 空中に、
「疑似空間」
 というものを作り出した宇宙人をやっつけて、ラストシーンのところで言ったセリフなのだが、
「どんなに優れた科学力を持っていても、やつらは悪魔でしかないんだ」
 と言ったセリフが印象的だった。
 科学の発展によって作り出された核兵器も、戦争のために使われて、爆弾として製造され、それが実践で使われた。
 一瞬にして、五万人以上が死に、そして、その後の放射能汚染によって、最終的に、十数万という人が、一つの都市で死んでいくことになるのだ。
 爆発した瞬間だけでなく、その後も二次被ばくという形で、放射能にやられてしまって死んでいく。そんな恐ろしい兵器を作り出したのは、数十万人という科学者だったのだ。
 彼らは、最初は兵器開発に邁進し、どれほど恐ろしい兵器なのかということよりも、自分の研究に没頭していたのだ。
 科学者であれば、それも当然のことであろう。
 しかし、元々原爆開発というのは、
「ドイツが先に原爆を開発してしまったら、世界は終わりだ」
 というような話を、アインシュタインが署名した新書を、当時のアメリカ大統領である、フランクリン・ルーズベルトに渡したことで、ルーズベルトが各派衣鉢を行うための、マンハッタン計画に乗り出したのだ。
 途中で、ドイツが降伏したことで、マンハッタン計画の原爆開発計画は、大義名分を失った。そこで、科学者の間で、
作品名:早朝と孤独 作家名:森本晃次