早朝と孤独
それは、今までずっと一緒にいた人と比較するからそうなるのであって、高校で同級生になった連中も、中学時代の友達と、さほど変わりのない成長だったに違いない。
さらに、クラスメイトの皆も、本当であれば、同じことを思っているのであろう、ただ、それを悟られたくないという思いから、虚勢を張って見えるのかも知れない。
だから、まわりにも、自分が同じように見えているとすれば、きっと、皆、
「食わず嫌い」
のような感じで、相手をけん制しあってしまって、近づこうとしないからこそ、余計な距離ができてしまうに違いない。
それが分かっているから、お互いに余計に近寄ることもなく、適度な距離を保っているのだろう。
その距離も慣れてくると、皆が皆距離の取り方がうまくなり、ずっと、
「交わることのない平行線」
を描くことで、結局、卒業するまで、接することのない人は、ずっとそのままの距離を取ることになるのだろう。
そんな高校時代になると、急にまわりが皆大人に見えてきて、そんな中で好きになる女性が現れるかと思ったが、そうでもなかった。
気になる子がいたにはいたが、その子は、すでに彼氏がいて、まわりの人の話では、結構な、
「あばずれ」
だという。
おとなしそうに見えたのだが、どうも、夜になると、夜の街を俳諧しているという話で、先生からも目をつけられているが、先生も、彼女には手を出せないという。
バックには、危ない人たちがついているということだったので、学校のクラスメイトごときが相手になるような女ではない。
目鼻立ちがハッキリしていて、ほとんどの男性が彼女の容姿について悪くいう人はいないだろう。
怪しげな魅力には、妖艶という表現がふさわしく、
「ひょっとすると、彼女のバックにいるという危ない連中が彼女を守っているわけではなく、あの連中こそ、彼女の魅力に魅了されてしまったのではないだろうか?」
と、すべて、彼女の美しさから起因しているものだといってもいいという話だった。
ただ、クラスの中で、幅を利かせているやつがいうには、
「あの女の魅力は、男を魅了しているだけではなく、あの女本人を狂わせているのではないか」
というのだ。
その話をしてくれた男性とは、なぜか鏑木は仲がいい。他の連中に対して、一歩下がってしか見ていなかった鏑木に、彼は自分から話しかけてきたのだ。
「君は、まわりの連中に臆しているように見えるけど、どうしてなんだい?」
と聞かれたのだ。
いきなり、そんなことを聞いてきたので、一瞬、
「お前には関係ないで見抜いたはないか」
と言いそうになるのをこらえて、思わず見返した。
すると彼はニッコリと笑って、
「そうか、それは悪いことを聞いたな。でも君は別に臆する必要なんかないと思っていたので、今君が俺に見返してくれたその目を見て、君とは仲良くやっていけそうだって思ったんだよ」
というではないか。
そんなこと言われたのは初めてだし。いくらクラスメイトとはいえ、話をしたこともなく、ほぼ初対面と言ってもいいような相手に、そこまでいうというのも、少しびっくりした。
だが、それだけ彼が、こちらを気にしてくれていて、初対面ではないという意識を持っていてくれていると思うと、嬉しい限りだったのだ。
それから、彼とは仲良くなったのだが、彼のことだから、鏑木が、その女性を好きになりかかっていることを分かったのだろう。
彼であれば、言われても別に悪い気はしなかった。逆に自分のためにアドバイスをくれようとしていると思うと嬉しかった。彼のいうことには、ほとんど間違いはなく、的を得ているからであった。
「他の動物などでは、女王バチのように、メスが圧倒的に強い動物もいるが、人間にはそのような性質はないんだ。何だかんだいっても、男性世界なんだよな。だから、女性が著しい力を持ったとしても、それは無理のあることだと思うんだ。まわりを魅了している魔力が備わっているとすれば、それは下手をすると自分を滅ぼすことになるかも知れない。本来ならその女がそれだけの力を持っていてくれればいいんだが、それがないとすれば、彼女のまわりの男も女も、すべてが瓦解してしまう。そうなると誰も、彼女が作り出した魔力に打ち勝つことができないんだ。彼女が死ぬか、あるいは、まわりがすべて亡ぶことで、その効力がなくなるしかないんだ」
というのだった。
「でも、女性の帝王がいたおかふぇでよかった杯もあるんじゃないかい?」
というと、
「もちろん例外もあるだろうが、そのほとんどは一代で滅びたり、違う家系に変わったりして、長続きしていないではないか。それを歴史が証明しているではないか。世の中なんてそんなものさ、しょせんは、歴史の中に、答えはあったりするものだからな」
というのだった。
「かなり壮大な話になってきた気がしたけど?」
というと、
「うん、俺もそう思う。ただ、お前はあの女のことは早く忘れた方がいいな。本当はお前だけではなく、他の皆も狂ってしまう前に、気づいてほしいんだ」
と彼は言った。
二重人格性
鏑木は、自分が二重人格であるということを知ったのはいつだっただろうか?
ハッキリと自覚したのは、中学時代だっただろうか。ただ、漠然と感じていたのは、小学生の頃からだったような気がする。
二重人格というよりも、躁鬱症っぽいところがあった。最初に感じたのは、鬱だったのか、躁だったのか、覚えていないが、躁から鬱に変わる時よりもm鬱から躁に変わる時の方が、自分ではよく分かると思っている。
それは、躁鬱症を、
「トンネルのようなものだ」
と考えたからだ、
明るい表から、暗いトンネルに入る時というのは、確かに、トンネルに入るというのが分かる。
ただ、それは明るいところだから、トンネルの入り口が分かるからなのであって、それは最初からトンネルに入るということが分かるのは可視として当たり前のことだった。逆にトンネルから表に出る時は、徐々に表からの明かりが漏れてくるのが、車で走っていて分かりにくいものである、
しかも、トンネル内には、黄色いランプが光っていて、暗い中で目が疲れないとい配慮なのか、明るすぎないように、暗いところで、しかも黄色い色は、他の色を凌駕しているような感じである。
だから、表の明るさが忍び込んでくる時は、実際にゆっくりで、ただ、そんなに遠くから見えるというのも、おかしな気がする。
それだけ、トンネルから出る時というのは、最初から予感めいたものがあり、それが分かっているから、トンネル内では、黄色いランプなのかも知れないと、勝手に邪推したことがあったくらいだ。
もちろん、小学生にそこまで詳しいことがわかるはずもない。
それなのに分かるというのは、それだけ、自分の頭の中で辻褄を合わせようとして、時系列を捻じ曲げているのではないだろうか。
「逆デジャブ」
とでもいえばいいのか、デジャブというのは、
「前に見たり聞いたりしたことがないはずなのに、以前に見たことがあるような気がする」
という矛盾した考えである。