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早朝と孤独

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 そういうと先輩が喜んでくれるのも分かっているし、実際にこれが本音でもあった。鏑木にも人に言えないような話がいくつもあり、鏑木だからこそ、そういう話が多いのではないかと思えるのだった。
 鏑木の家がお寺だということを、中学時代くらいまで嫌いだった。
 小学校でも、中学でもそのことでいじられてしまった。苛めにまで発展することはなかったのだが、いじられるのは、基本的に嫌だったので、気持ち悪かった。先生も、
「皆、変なことは言わないように」
 というような言い方しかしない。
 そもそも、先生も、何が悪いということなのか分かっているのかも疑問だ、だから、
「変なこと」
 などという曖昧な言い方にしかならないのだ。
 だから、
「皆が何を言っても気にしないようにすればいいんだ」
 と思うようになった。
 大人が当てにならないということに気づいたのが、この頃だった。
 だからと言って。子供だったら、何を言ってもいいというわけではない。子供がいうのを、大人は、
「子供だからね、ある程度はしょうがない」
 という親がいたりするが、
「何を言ってるんだ」
 としか思わない。
 子供にだって、言っていいことと悪いことがある。悪いことを言ってしまうと、取り返しがつかないことになるというのを、大人が教えるべきなのだろうが、その親自体が分かっていないのであるから、本末転倒なのだ。
 そのことを分かっているからなのか、大人は何も言おうとしなくなった。それが小学生の頃までのことだった。
 中学に入ると、少し言われ方が減ってきたような気がする。
 そもそも、中学生になると、皆自分のことだけで精一杯という感じになっている。それは、思春期を迎えたからなのだろうが、人にかまっている状況ではないと思うのだろう。
 しかし、興味津々になっているようで、異性に関しての感情は尋常ではないようだ。
「大人になるということは、こんなに寡黙になるということか?」
 と感じたが、それが親や社会人になると、そうでもなくなる。
 親や先生ばかりを見ているからであり、そこには、子供に対して責任があるということなのであろうか。
 実際に親や先生など、その子供にかかわりのある人は、当然のごとく、介入してくる。自分の立場を危うくされても困るだkらだ。
 そんな親などの大人を見ていると、子供心に冷めた目になってしまう。親の目線が上から目線であることが分かると、子供は親を無視するようになってくる。
 自分たちが上から目線なのを棚に上げて、自分たちのことしか考えていないことを知られたくない一心で、子供を庇うような口調になるが、結局、自分に迷惑が掛かるのを恐れて、次第に声のトーンも上がってくる。
「どうして、お母さんの言っていることをちゃんと聞こうとしないの?」
 と言われるが、
「あんたの言ってることは、自分の保身のためだってことくらい、バレバレなんだよ」
 と言いたくなって、ついつい目線が攻撃的になっていまい、
「何、その反抗的な目は?」
 と言って、勝手に逆上するようになる。
 ここまでくれば、子供も脱力感に包まれて、
「何言ってるんだか」
 と段々、話すのがバカバカしくなってくるのだ。
 子供が親と話さなくなる理由はそのあたりにあるのではないだろうか?
 子供は親が思っているほど、子供ではない。冷静な目で見るということに関しては、大人よりも子供の方が鋭いのではないだろうか。
 なぜそうなるかというと、
「大人は自分のことしか考えていない」
 と言えるからだ。
 そのことを子供が分かってくると、親離れの時期なのかも知れないが、まわりが、自分のことしか考えていないということが分かってくると、やはり、それ以上にまわりを見るのが嫌になり、引きこもってしまう子供が増えるのも、無理のないことなのであろう。
 中学生の頃は思春期なので、自分のことで精いっぱいになることから、親に完全に反抗できない。自分のことをまず分からないと、まわりが見えてこないはずなので、自分のことで精いっぱいになるというのも当然のことだ。
「大人も厄介だけど、今の自分も厄介だな」
 と、思春期に感じることなのだろう。
 高校生になると、今度は、余計にまわりの人と絡まなくなった。高校生というのは、最初に、うまくまわりに絡めなければ、そのまま孤立化してしまうもののようだ、なぜなら、中学への進学は義務教育で、しかも、校区がそれほど違わないので、ある意味、ほとんど皆同じ中学に入ることになる。
 だが、高校では義務教育ではないので、成績のレベルから、必然的に学校が決まっていくので、中学時代に仲の良かった人と同じところに行けるという保証はない。
 逆に、中学の頃にあまりいい思い出のない相手と別れることができるという意味で、それはそれでありがたいのだった。
 高校生になると、中学生の頃と違って、学年ごとに、明らかに違いがハッキリしてくる。二年生は二年生で、三年生は三年生で、それぞれの貫禄のようなものがあり、一年生から見ても、相手が何年生なのかが分かるというものだ。
 身体の成長もそうだが、精神的な成長が大きいのだろう。身体の成長ということであれば、中学時代の方が、背が伸びたり、女性は身体の発育が、明らかになるからだ。
「人間って、身体の成長が先で、後を追うように、精神的な成長がついてくるものなんだろうな」
 と感じた。
 だが、二年生になると、今度は、一年生の時に二年生の成長を感じたほど、一年生を見て、
「まだまだだ」
 という感覚にはならない。
 三年生を見ても、一年生の時に感じた。二年生ほど遠くに感じることはない。
 二年生という中間にいると、それぞれに分かってくるものがあるからか、上も下も見えてきて、三年生になってからよりも、二年生の時の方が、よく分かっているような気がするのだった。
 中学時代には、そんな発想はなかった。
 中学生の時には、確かに先輩というと、
「大きいな」
 という感覚はあったが、そこまでではないことは、二年生になって分かった。
 二年生になると、自分が見ていた二年生と、まったく変わらない二年生になった気がしている。
 要するに、、まったく成長したような気がしないのだ。
「まわりが、今までと変わらないというところがあるからなのかも知れないな」
 と感じた。
 自分がこれまで知っている相手が、同じように成長していく姿を一緒に見ているので、相手の方が成長が大きくても、一緒にいると、そこまで相手が自分よりも成長した気にはならないからだ。
「そのうちに、自分が成長する時期になって、同じになるんだ」
 ということを感じているので、人の成長も自分の成長に関しても、あまり意識がないのだった。
 だが、高校生になると、今まで知っている人たちではない人たちがまわりにいることになる。
「どんな人たちなんだろう?」
 と考えてしまったが、思っていたよりも、想像とは違えたものだった。
 一番の違いを感じtのは、成長の度合いで、中学時代の友達と比べても、みんな垢抜けているように見えた。
作品名:早朝と孤独 作家名:森本晃次