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架空小説の一期一会

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「どうして、助けたカメの背中に乗って、浦島太郎は竜宮城にきたおか?」
 ということである。
 カメという動物がいるだけで、誰も何も説明もしてくれないのに、ホイホイとカメの背中に乗って竜宮城になど、普通なら来ないだろう。カメがしゃべったとでもいうのか?
 もしそうだとしても、カメがしゃべるなど、恐ろしくて誰が信じられるというのだ?
 これが、この後の疑問とも微妙に結びついてくるのだ。
 もう一つの突っ込みどころは、
「このカメが実は、乙姫だったのではないか?」
 ということである。
 これが前述の疑問の解決にもなることで、詳しく書かれていないが、太郎がカメを助けてカメの背中に乗る時、カメが乙姫様になったのだとすれば、納得がいくこともある。
 乙姫様はあまりにも美しく、その姿を見ただけで、浦島太郎は金縛りに遭ったかのように、疑いをまったく抱くことがなかったという説と、乙姫様になったカメが、浦島太郎に暗示をかけて、疑わないようにして竜宮城へ連れていったという説。どちらも、いきなりカメの背中に乗ったことを考えれば、かなりの信憑性があるのではないかと思えるのだった。
 そして、そこまでくると、もう一つの疑問は、
「最初から、乙姫様は浦島太郎を狙っていたのではないか?」
 ということである。
 今の時代でいえば、さしずめ、ストーカーと言ったところか。
 自分が好きになった浦島太郎を自分のものにするために、一芝居を打ったという考え方である。
 ただ、竜宮城の姫である乙姫と、地上世界におけるただの平凡な漁師(あるいは、ニート?)である浦島太郎を好きになっても、気持ちが成就するには、いろいろ問題がある。そのために、これだけのややこしく複雑な設定を凝らす形で、欺かないと、恋愛が成就しないという、乙姫による。
「一方的な恋の押し付け」
 ではないかと言えるのではないだろうか。
 それを考えると、乙姫がカメに化けた理由も、分かる気がする。そうなると、気になるのが、
「果たして、この人の正体は乙姫なのか、カメなのか?」
 ということであるが、最後に太郎が鶴になったということであるが、カメである自分と結ばれるには、人間ではダメで、一度老人になって鶴になるという効果を、玉手箱がになっていたということになるのであろう。
 そう考えると、違和感のあったところが少しずつ繋がっていくような気がする。ひょっとすると、
「最初に助けたカメが乙姫に姿を変えなかったのは、最初から叙述の意識があったからではないのだろうか?」
 と考えられるのではないだろうか?
 それを思うと、前述の、
「カメがしゃべるなどということを誰が信じられるか?」
 という疑問に、微妙にかかわってくるのではないかと思うのだった。
 そして、最大の疑問として、
「なぜ、途中でこの話を終わりにしてしまったのだろうか?」
 ということであった。
 確かに、昔から伝わっているおとぎ話というのは、通説とは違って、続編があったというものも少なくはない。
 しかし、この浦島太郎の話のように、違和感や不自然さが伴うような中途半端な終わり方ではなく、結末に理不尽のないものが多かったのだ。
 それを思うとなぜ、このような終わり方をさせたのかが、疑問に思えてならないだろう。
 そもそも、おとぎ話を教育の一環として定めたのは、明治政府だった。
 学校による教育を決めた時、教育草案のようなものの中で、おとぎ話も吟味されたことだろう。
 その中で浦島太郎という話は、どこで終わらせても、不自然さは残ると考えたのであろう。
 しかも、最後まで話を繋いでしまうと、前述のような突っ込みどころが満載になってしまい、
「これが結末だ」
 としてしまうよりも、少し違和感を起こしたままにしておいて、
@ひょっとすると、続編があるのかも?」
 と思わせることで、違和感が半減するとでも考えているのかも知れない。
 そんなことを考えると、
「では一体どこで切るのが一番いいのだろう?」
 と考えたところで、考えられたのは、この話のテーマを、
「見るなのタブー」
 にしてしまうことが大切だと思ったのだろう。
「見るなのタブー」
 というのは、おとぎ話に限らず、神話などにも出てくる。
「見てはいけない」
 あるいは、
「開けてはいけない」
 という戒めがあったにも関わらず、好奇心に負けて見てしまった時、戒めを受けるというもので、旧約聖書における、ソドムの村の話や、おとぎ話の中でも、鶴の恩返しであったり、舌切り雀の話などに出てくるものを、見てしまったことで、最後は悲劇で終わるというものだ、
 浦島太郎の話も、乙姫様からもらった玉手箱を、乙姫様の忠告にあったように、
「決して開けてはいけません」
 と言われて、いるものを開けてしまったことでおじいさんになったというところで終わっている。
 これほど、後味の悪い話はないのだが、これが、
「見るなのタブー」
 という話の結末であるとすれば、実はこれほどの切れ味を放つ話というものはないということになるであろう。
 だが、それでも、違和感は十分にあるのだ。
 ネットなどで書かれていることを総合すると、
「どうして、浦島太郎はカメを助けたといういいことをしたのに、まるで報復であるかのように、おじいさんになるところで終わらなければいけないのか?」
 ということでの違和感であった。
 浦島太郎というのは、最後まで明かしてしまうと、乙姫の策略のようなものが見えてきて。
「浦島太郎が、乙姫の掌で転がされているという構図が見えてくるからではないだろうか?」
 ということが分かってしまうのが、政府としては、教育上まずいと思ったのかも知れない。
 ただ、時代は変わって、自由な発想に自由な想像を許される時代になったから、余計に、疑問を自由に疑問として感じられるようになったのだ。
 明治のように、民衆の心が一つにならなければ、解決できないという問題を抱えた、世界情勢の時代ではないということも言えるであろう。
 ただ、皆忘れているかも知れないが、浦島太郎というおとぎ話の中には、相対性理論という意味のSFチックな話も含まれているのだ。
 人によっては、この話をSFの物語だと思い、恋愛物語だというラストを知らなければ、皆SFに目が行くだろう。
「ひょっとすると、明治政府はそれを狙ったのではないだろうか?」
 と考えたが、それは考えすぎであろうか?
 ウラシマ伝説には、いろいろと曰くがありそうな気がする。
 考えてみれば、
「なぜ、乙姫様が玉手箱を渡したのか?」
 ということが問題である。
 浦島太郎を好きになった乙姫は、浦島太郎と一緒に暮らしたいという願望があり、本来であれば、竜宮城で一緒に暮らしたいと思っているのを、彼に里心がついたことで、最初は引き留めようとするが、それを叶わないと感じたのだろう?
 ここで引き留めたとしても、ずっと浦島の心に残してきた家族への気持ちが残ってしまう。そこで考えたのが、
「一度彼を返して、そして、失望させることで、乙姫である私しかいないと思わせることが大切だ」
 という、ずいぶん都合のいいことを考えたのかも知れない。
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次