架空小説の一期一会
浦島太郎は、タイやヒラメの踊りなどを見て、数日間楽しんだというが、実際に、数日間も眠ることもなく楽しんだというのだろうか?
確かに、時間を感じることなく楽しんだということになっているが、そのあたりも曖昧だといえるのではないか。
そのうちに、自分が残してきた世界が恋しくなったのか、一種のホームシックというやつなのか、あれだけ楽しかったといえることが、その間ホームシックにさせなかった理由だとすれば、浦島太郎という人間が、中途半端に思えて仕方がない。
最初から数日間、いくら楽しいといって、故郷のことをずっと忘れていたのであれば、今さらホームシックに掛かるというのもおかしな感じがするのだ。そこまできたのであれば、ずっと忘れている方が楽であるし、それだけ楽しいところのはずだからである。
それをまるで我に返ったように、
「もう帰る」
と言い出したとすれば、まるで幼子であるかのような不自然さを感じるのだった。
幼子であれば分かるというのは、大人になると、忖度してしまう気持ちになるからだ。面倒臭いことも分かってくるので、そんな面倒臭い思いをするくらいなら、黙っておこうと考えるのが普通だとすれば、それは、
「浦島太郎が、幼子に感覚が戻ってしまったのか」
それとも、竜宮城、いや乙姫の側で、そう感じるように暗示をかけたり、感じさせるような演出をしたのかも知れない。
人間の心理の変化というのは、そういう複雑に絡み合った感覚から、生まれてくるのかも知れないと思うのだった。
そして、竜宮城からまたしても、カメの背中に乗って地上に戻ってきた。その時には、知っている人が誰もいなくて、その世界は、七百年後だったという。
さて、ここまでで、何か不自然なことはないだろうか? 別におかしいというわけではないが、不自然、いや違和感というべきであろうか? 感じる人は少ないかも知れない。
当の作者であっても、
「この話を怪しいということを感じ、そこを、中心に考えていて、おや? と感じた」
ということなのだ。
それというのは、
「話がここまで続いてきて、ラストが見え掛かっているというのが分かるのが一つ。起承転結のあとは結を残すだけだと分かるのだ。カメを助けるのが起、竜宮城での楽しみが承、元の土地に戻りたくて戻ってきたのが転ということになるのだが、そこまできて、登場人物というのが、浦島太郎と乙姫だけだということだからである」
確かに、舞台演技をするのであれば、エキストラとして、カメを苛めていた子供たち、そして、竜宮城での宴会に参加して、場を盛り上げている連中。ただタイやヒラメの踊りがあったように、すべてが海の生き物なのかも知れないが……。
そうやって考えると、人として、いや人の形をしている登場人物は、主人公の浦島太郎と、準主役の乙姫だけである。乙姫は準主役というよりも、ヒロインという主役級かも知れない・
ただ、ここでいう乙姫にしても、
「登場人物が人間」
という意味でいけば、本来なら、浦島太郎一人だけということになる。
そもそも、小説の中で、登場人物が一人だけの物語というのも、非常に珍しいもので、書き手から考えると、これほど不自然で違和感のあるものもないだろう。
浦島太郎というお話を、皆、
「どこかおかしい」
と思って、疑問に感じる人は多いが、皆ちょっと違ったところに目を向けているのが、作者としては滑稽だ。
そういう目で見ていると、このお話は、わざとそっちの方に目を向けさせる、一種の、
「叙述小説」
なのかも知れない。
作者の書き方一つで、別の方に目を反らさせて、真実、あるいは話の論点をずらすことで、不思議なことに焦点を当てず、曖昧な中に、この話を置くことで、読者に興味を持たせたまま終わらせることができれば、それが作者の意図だとすれば、最高の叙述小説だといえるのではないだろうか。
そうなると、ジャンルとしてはミステリー、推理小説になるのであろうが、実はこのお話は、恋愛小説なのであった。
しかも、ハッピーエンドで終わる恋愛小説だという意味で、純愛の恋愛小説だといえるであろう。
ただ、それはお話を最後まで読んだ場合のことである。
このお話を知っている人で、
「違和感がある」
と思っている人のほとんどが、
「浦島太郎は、カメを助けたことで礼を受けただけなのに、どうして、最後は玉手箱を開けて、おじいさんにならなければいけないんだ?」
ということであった。
これでは、
「本来であれば、カメを助けたという功労者である浦島太郎の結末はハッピーエンドにならなければいけないではないか?」
というものである。
だが、おとぎ話の中には、助けたとしても、最後には必ずしもハッピーエンドにならない話も多いのではないか、それなのに、なぜこのお話だけ、そんな風に言われるのかというと、きっと、
「ラストが中途半端な終わり方をしている」
というところからきているからではないか?
玉手箱を開けて、おじいさんになる、そこで終わるということは、最後まで浦島太郎だけが出てくる物語で、乙姫は、ただ、登場人物として、太郎をもてなし、そして定例として、玉手箱を渡したというだけではないか。
読者が乙姫にそれ以上の何かを求めているのだとすると、このお話は、あまりにも中途半端すぎるということになると、ここで終わっているのは、実に不自然で、不自然だからこそ、その不自然に感じる理由をどこかに求めようと考えると、
「いいことをしたのに、どうして最後はおじいさん?」
ということが違和感の正体だと思うようになったのだろう。
不自然さを見つけ、それを?み砕いて考えようとした時、それが違和感として残った場合は。不自然さが本当にそこにあったのかどうか、そこから考える必要があるのではないか?
浦島太郎の話は、そこから考えさせるものではないかと感じるのだった。
そんな浦島太郎のお話、実はこの後、続きがあるのだ。
というのは、
「浦島太郎が、乙姫様から決して開けてはいけないと言われていた玉手箱を、もう自分が知っているところではなくなってしまった地上を見て、自分の帰るところがどこにもないことを察したことで、自暴自棄になって玉手箱を開けてしまったことで、おじいさんになってしまった」
というのが、通説であるのだが、その続編として、
「玉手箱を開けてしまった浦島太郎に対して、かねてより好きになっていた乙姫様が、自分がカメになって太郎の元に行くと、太郎は鶴になり、二人はそれから幸せに末永く暮らしたという……」
というのが、大まかなラストであり、これをハッピーエンドだというのだ。
ここでも、突っ込みどころがいくつかある。
まず、乙姫がカメになったという話だが、前述のように、このお話には登場人物は、ほとんどいない。
その中で、何度も登場するこのカメ、子供たちに苛められていて、それを助けたことで、竜宮城に連れていってもらったそのカメ、そして帰りに連れて帰ってもらった時のカメ、そして乙姫が化けた(いや、本来の姿かも知れないが)カメ、三回も出てくるではないか。
ここで、一つ突っ込みどころとして、