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架空小説の一期一会

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「夢の世界というのは、必ず覚めるものであり、逆にいえば、覚めなければ、それが現実なのだ」
 と言えるであろう。
 今、この瞬間に死んでしまったとすれば、答えは出ないかも知れないが、
「夢が現実になったことで、死を迎えた」
 と言えるのではないかと思うと、少し恐ろしいが、それも真理と言えるのではないだろうか。
 そうなると、死を迎えた瞬間、現実はなくなってしまうということになるのかも知れない。
 最後に、
「夢と現実が、昼と夜のように、必ず循環したものではないか?」
 という考えが一番突飛に感じるが、だが、この発想がある意味、しっくりくるものである感じもある。
 それこそ、ひらめきの豆電球が点灯するというようなもので、
「昼と夜がどうして毎日規則的に循環するのか?」
 ということに繋がってくる。
 天文学的に言えば、地球が自転をしているから当たり前のことなのだが、逆に、このような自転と恒星の間で距離を保って公転しているということが、バランスを保ちながら、存在できる星だから、人間や、その他の生物は存在することができるという、
「奇跡の星」
 だといえるのではないだろうか。
 これだけでも奇跡なのに、さらに、深堀りをしようというのは、贅沢な発想で、これだけのことを、
「自然の摂理」
 という言葉一言にまとめてもいいのではないかというのは、壮大な発想からくるものであった。
 しかし、人間というものの探求心が深いことで、文明を持つ存在になれたのだから、人間が人間であるゆえんとして、この考えを大切にしていくべきだろうと考えるのだった。

               【真説】ウラシマ伝説

 箱庭療法として、表から見ているという発想と、中から表を見る発想とでは、どちらが多かったといえるだろうか?
 それぞれに、思い浮かんだ時の気持ちを思い出すことができる。
 外から中を見た時に感じたものとしては、
「実際にその瞬間に感じているということが分かった時だ」
 と言えるだろう。
 というのは、
「表にいる自分が、三次元の世界にいて、中にいる自分が、二次元だ」
 という発想であった。
 つまりは、絵の中に描かれている箱庭を見ていて、その中に自分がいるという発想である。これは、
「自分のいる次元から、下等な次元を見た時には見えるが、逆だと見えない」
 という発想に基づいているものだった。
 逆にいえば、自分が三次元の発想で、中にいて、そこから表を見るということは、高等な世界を見ようとしていることなので、
「見えるはずのないものを見ている」
 ということになる。
 そこには、大いなる矛盾が孕んでいるという思いを抱きながら見ているはずなので、その発想の行きつく先がどこになるのか、まったく想像がつかない。
 ということは、
「その世界は夢を見ているということであり、夢の中がリアルであればあるほど、抜け出しにくいものではないか?」
 と考えることであった。
「夢と現実の違いは、覚めるか覚めないか? ということであり、覚めなかったら、それが現実ということになる」
 という前述の話に繋がってくるのである。
 だから、もし、表から見ている自分と、中から表を見上げている自分のどちらが本当の自分なのかというと、表から見ている自分だということを、このような理屈で考えた時に出てくる答えなのであろう。
 時間の早さを感じるということの発想として、
「理論物理学」
 というものがあると思っているが、その理論として一番最初に思いついたものが、これだったということで、
「タマゴとニワトリ、その発想が交差するというよりも、正面衝突したような感覚になった」
 と言ってもいいだろう。
 要するに、
「どちらから考えたとしても、結局、行きつく先は同じだった」
 ということである。
 この発想は、理論科学における、
「相対性理論」
 ということになるであろう。
 相対性理論というのは、ユダヤ人理論物理学者である、
「アインシュタイン」
 という人が創造した発想であり、理論物理学の重大な発見として、広く今でも研究されていることである。
 その中で、時間と、空間についての発想として、
「光速を超える速度で移動した場合。動いていない人に比べると、時間がゆっくり進むおとになる」
 という発想がある。
 この発想が、それまで空想物語として、不可能に思われた、
「タイムマシン」
 の発想となってくるのである。
 タイムマシンの発想というのは、ロボット開発と同じで、
「分かってくれば分かってくるほど、その先に結界ができてしまって、果たして結界というものがいくつ存在するのかということが大いなる問題になる:
 と言ってもいいものなのであろう。
 このような、時間が速度によって進みスピードまで違うという発想はいつからあったのだろう。
 同じような発想として、思いついたことが、昔からおとぎ話と伝わってきている、
「浦島太郎」
 の発想だったのだ。
 浦島太郎という話は、結構突っ込みどころのある話で、少しずつ、それを明かしていこうと思う。あくまでも、作者が記憶している内容によるものなので、人それぞれ聞いた時の環境や感覚によって、違った解釈があるかも知れないが、それはあしからずということになるだろう。
 最初に、浜辺で子供たちに苛められているカメを助けたことで、そのカメの背中に乗って浦島太郎が、竜宮城に出かけるという話だが、ここでもいくつかの疑問がある。
 まずは、
「人間である浦島太郎が、なぜアクアラングをつけずに、海に潜っていけるか?」
 ということである。
 普通に考えれば、窒息死してそれで終わりではないのだろうか?
 それ以上に気になるのは、カメである。
 子供たちが苛めていたというのだから、そんなに大きなものではないだろう。実際に、ウミガメのような大きなカメがいたとしても、いくら子供が数人いたとしても、それを苛めているというのは、少しおかしな気がする。もっとも、産卵目的で陸に来ていて、それを知っている子供たちが、無邪気というには、あまりにも罪作りな状態でカメを苛めていたというのは、おとぎ話というものの主旨から考えると、言い伝えとしては、少々過激すぎるのではないかという思いである。
 次の話として、
「竜宮城につくと、そこで乙姫様から、カメが世話になったという礼を言われて、そこで数日楽しんでいくことを促された」
 ということであるが、浦島太郎は、よくもこのような理屈に合わない。想像を絶するような場所に連れてこられて、楽しめたというのだろうか?
 浦島太郎の家族構成は分かっていないが、もし、彼が陸に残してきた人が、年老いた両親であったり、嫁や子供だったりするかも知れない。
 そもそも、その時の浦島太郎というのはいくつなのだろう? おとぎ話の設定としてはそのことは書かれていないような気がした。
 ただ、ビクと釣り竿を持って、浜辺に釣りをしにきたというだけの男性であるということが分かっているだけである。それを思うと、分からないことが多すぎるといえるのではないだろうか。
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次