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架空小説の一期一会

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「命の安全が脅かされるような出来事(戦争、天災、事故、犯罪、虐待など)によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害である」
 と言われている。
 つまり、過去にあった出来事で、自分の中でショックに感じたことが、精神的にむしばんでしまったりしたことを、忘れようとしてもある程度までは自然に忘れるのだろうが、それ以上は忘れることのできないものだ。
 その忘れ方の度合いにはさまざまあり、なかなか忘れられないと普段から思っているものや、普段は普通に忘れてしまっているのだが、ふとしたはずみで、思い出してしまうと、手足がしびれたり、震えが止まらなくなり、酷い時には呼吸困難に陥って、泡を吹いて、気絶してしまうこともあるだろう、
 そこに記憶喪失が絡んでいるかどうかまでは分からないが、すべてのことを忘れてしまうことができない限り、死ぬまで付きまとうといってもいいだろう。
 そういう意味では、記憶喪失というのも、何か自分にとってショックなことがあり、その状態から逃れようとする本能のようなものが働いて、記憶を封印させようとする意識の表れではないかと言われている。
 そういう意味では、このPTSDと似ているのではないだろうか。
 ただ、PTSDの場合は、記憶が完全であるが、肝心な部分の記憶がPTSDによって、消えているのかも知れない。
 それがきっと中途半端な聞く喪失となり、余計に、本人を苦しめるものとなっているのではないだろうか?
 ただ、記憶を完全に失うほどのショックを受けた記憶喪失の方が、本人にとって大きなショックであることは間違いない。なぜなら、記憶を取り戻そうとして、無理をすると、ほとんどの場合、頭痛というものを引き起こすではないか、それはきっと、何が辛いというのか、分かっていながらのことであろう。それだけ記憶喪失が辛いということなのであろう。
 エンドルフィンにしても、PTSDにしても、
「人間が作り出した感覚に対して、原因を突き詰めた時に、その方向にちょうどあったのが、この二つではないのか?」
 という考えに至ったと考えるのはいかがなものだろうか?
 もう一つ考えると、時間を感じるというのは、三つの感覚しかない。
「思ったよりも長く感じる時」
「思ったよりも短く感じる時」
「想定内であり、少し違ったとしても、それはあくまでも、誤差の範囲であるという場合」
 だといえるのではないだろうか。
 そうなると、誤差の範囲のその先は、長く感じるか、短く感じるかということの間に隙間はないといってもいい。
 というころは、誤差の範囲に隙間はあるかも知れないが、ほぼ違和感のない時である。そうなると、そこから外れたものは、すべて、何かの原因があるということになるのではないか。
 それが、思いついたこととして、エンドルフィンであったり、PTSDであったりするだけで、もっと言えば、時間を長く感じる時、または短く感じる時にだって、その幅はあるはずだ。
 どんなに長く感じる時でも、その時々によって、
「長く感じる時のいつもよりも、少し短い」
 と考えたり、
「まるで、限界がないかのように、無限に近いほどの長さを感じる」
 ということだってあるかも知れない。
 もちろ、短く感じる時であっても同じことであり、つまりは、
「それぞれに、幅があったり、遊びのようなニュートラルな部分が存在するか?」
 ということになり、それが段階を経ていることであるという考えに至るのは、少し難しいことであろうか? などと、考え方が入れ子になってしまい、まるで、マトリョーシカのような感じさえしてくるのだった。
 そんな時間の感覚が、マトリョーシカの様相を呈してくると、特に心理学というのを考える場合、一つの実験を思い出してしまうのは、作者だけであろうか?
 そう、内容は知らなくとも、言葉くらいは聞いたことがあるのではないだろうか?
 それは、
「箱庭療法」
 と言われるもので、
「箱の中にクライエントが、セラピストが見守る中で自由に部屋にあるおもちゃを入れていく手法。表現療法に位置づけられるが、作られた作品は言語化されるときもある。基本的に自由に見守られながら表現することが重要である」
 という定義があるようだ。
 この発想は、
「遊びと自己表現の融合」
 と言ってもいいかも知れない。
 ただ、ここでの箱庭という発想は、作者が勝手に考えたことであり、マトリョシカのように、入れ子にあった発想からきているものである。
 つまり、箱にはの中にいる自分と、それを箱庭の外にいて、中を見ている自分という二つの視線が融合する形での考え方だといえるであろう。
「人間というのは、二つある手が、片方は熱くて、片方は冷たかったとした場合、
「それを一緒に掴んだり一人で手を繋いだ時、熱さと冷たさのどちらが、脳に伝わるのか?」
 ということを考えるのと同じではないかと思うのだ。
 箱庭から見る自分も、外から箱庭を見る自分も同じ自分として解釈した場合に、頭の中がどうなっているのかを考えると、エンドルフィンも、PTSDという考え方も、いかに考えればいいのかというヒントになるかも知れない。
 しかし、基本的に人間というのは、
「同時に一つのことを考えることは苦手だと思っている」
 とすると、このお話は先に続かない。
 どう考えればいいのだろうか?
 ただ、このような箱庭の発想は、今までに何度か感じたことがあったような気がした。
 それは何かというと、
「夢の感覚」
 であった。
 夢というものと、現実が分からなくなった時というのは、
「夢と現実が頭の中で混同しているほど、その境目を感じることができない」
 という思いと、
「夢を見ている時、夢だと思うとその場で目が覚めてしまう」
 という感覚があったり、
「夢と現実が、昼と夜のように、必ず循環したものではないか?」
 と感じた時などと、いろいろな発想が生まれてくることがある。
 まずは最初の混同であるが、
「夢の世界と現実世界があまりにも酷似していることで、分からなくなってしまっている」
 という発想である。
 この発想は結構ありえることで、デジャブなどを感じる時に生まれる発想ではないかと思うのだが、
「デジャブ自体が、信じられないようなことを自分の中で納得させようとする、一種の辻褄合わせではないか?」
 と思うのだ。
 このお話の中でちょくちょく出てくるキーワードとしての、
「辻褄合わせ」
 のの発想は、意外と人間の真理をついているのではないかと感じるのだ。
 二つ目の、
夢を見ている時、夢だと思うとその場で目が覚めてしまう」
 という発想であるが、これこそが、夢と現実が分からなくなった時、その違いがどこにあるのかということを示したものではないかと思うのだった。
 つまり、
「今のこの目の前の世界が、夢であるか、現実であるか?」
 と聞かれた時、どう答えるであろう?
 人によっては、
「死ぬまで分からなかったらどうしよう?」
 という答えを出す人がいるが、その言葉が、実はこの答えを表しているのだ。
 つまり、
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次