架空小説の一期一会
平面が、縦と横を形成し、二次元を形作る。そこに高さの概念が結びついて。三次元が形成される。それと同じように、時間とスピードというのは、縦と横の関係のように、必ずどこから交わる、あるいは接することになるということは誰もが感じていることであろう。
そもそも、時間軸というものを、もう一つの新しい軸として考えるという発想から生まれたものが、
「四次元の世界」
である。
四次元の世界の創造は、パラドックスというものをいくつも生み出した。
何しろ、前に進むという概念しかなかった時間軸に、過去に戻ったり、あるいは、心臓の鼓動と人間の生死が大きくかかわっているかのように、正確で微塵の狂いもなく刻んでいる時間というものが、時刻という形の決まったものが存在しているレールのようなものの上を、決まった速度で通り過ぎていくのが、いわゆる、
「時間」
というものであり、その場合のレールのことを、
「時間軸」
と言っていいのだろう。
そんなことを考えていると、次元というものが、
「時間、時刻というものとは切っても切り離せないものだ」
と考える。
点である一次元にも、平面である二次元にも、立体である三次元にも平等に同じ時間軸が存在していることから、次元としての矛盾は発生しなかったが、それが、時間軸を一つの軸に加えることで、今まで考えられなかった矛盾が発生することになる。
それは、息を止めることもできず、不規則な動きをすることが致命傷になる人間の心臓が、ありえない動きをしたのに、人間が生きながらえているというような発想になるからではないであろうか?
そんなことを考えていると、時間というものが、理論物理学の世界だけではなく、心理学であったり、広さというものがかかわってくると、天文学にも大きなかかわりを感じさせるようになるのだということを感がさせられ、その先に、
「無限の可能性」
というものを考えさせるものではないかと思わせるのだった。
心理学ということで考えると、
「時間の早さというものに違いがある」
と思えるのだ。
心理学というと、少し仰々しいが、喜怒哀楽を絡めて考えると、分かりやすいのかも知れない。
「時間が短く感じられるのは、楽しいと思っている時であったり、集中している時などに感じることであって、逆に早く過ぎてほしいと思っている時に限って、なかなか時間が経過してくれない時があるが、それが、苦痛を伴う時であったり、嫌なことがあった時などはなかなか早く進んでくれない」
どちらがいい悪いという問題は、その人の性格であったり、その時々の精神状態によっても関わってくるので、一言で言い表すのは、実に難しいことである。
ただ、それぞれが、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
というような発想を思い浮かべた時、複雑なことも、無限だと考えれば、納得できないことなどないような気がしてくるというものである。
無限というもを考えた時、その正対するものに、ゼロという概念が存在することを意識する人も少なくはないだろう。
ゼロという概念も、無限という概念に等しく、いや、それ以上に不思議なものだといえるのではないだろうか。
「ゼロ除算」
という言葉を聞いたことがあるだろうか?
何かの数字を、ゼロで割るというものである、
これは、
「数学において、ゼロで割るということは矛盾が起きてしまい、そのような問題を矛盾なく定義することができない」
ということから、
「計算は不可能である」
ということから、
「数学会のタブー」
と言われるようになった。
なぜなら、ゼロで割るということは、逆にいえば、割った答えにゼロを掛ければ、元の数になるということであり、掛け算において、
「何にゼロを掛けても、ゼロにしかならない」
ということであり、
「割った数も、割るもとの数も、ゼロということになる。そうなると、この計算は、ゼロ割るゼロはゼロだということになるのだが、ここに矛盾が発生する。つまり、割り算において、割る数と割られる数が同じものの答えは一であるという法則に矛盾してしまうからである」
という矛盾の結論に至るからである。
だからこそ、ゼロ除算は、矛盾なのであり、
「数学のタブー式だ」
と言われるゆえんなのであろう。
しかし、
「コンピュータの数値計算においてゼロ除算が発生した場合、無限大というシンボルで置き換えられるか、発生した時点で処理が破綻する(システムエラーとなる)かのどちらかである」
と言われることから、ゼロという数字の概念が、無限大、つまり無限ということとまったくの無関係ではないということで、それぞれ、一番遠い距離にいるように見えたこの二つの関係が、急に接近していて、
「下手をすれば、隣同士の関係なのではないだろうか?」
と言えるのではないかと考えるのであった。
「ゼロというのは、無限に限界が存在すると考えた時、その証拠には必ず不可欠なものではないか」
と言えるものだと考えるのだった。
時間というものを考えていると、SF的な発想がどうしても先に来てしまう。
「タイムマシンという発想が、その思いを加速させているのであろう」
と考えられるのだった。
心理学的な面も前述で少し語ったが、詳しく考えてみることにしよう。
まず、時間が短く感じる、あるいは長く感じるというのは、錯覚によるものだけであろうか?
少し考えてみると、時間を短く感じるという、楽しいことであったり。何かに集中している時というのは、一種お、「脳汁」のようなものが出る時ではないかと思われることがあるが、「脳汁」などというような正式な言葉があるわけではなく、
「エンドルフィン」
と呼ばれる神経伝達物質の一つだと考えられる。
その機能というのは、
「内在性オピオイドであり、モルヒネ同様の作用を示す。特に、脳内の「報酬系」に多く分布する。内在性鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらすと考えられている。そのため脳内麻薬と呼ばれることもある」
と言われているようだ。
これは一種の分泌液で、ホルモンのようなものに近いのかも知れない。それほど医学に詳しいわけではないが、理解しようと考えた時、
「ホルモンのようなものだ」
と考えた方が、理解しやすいからだ。
そして何よりも、ここでは理解するというよりも、
「時間を短く感じる時」
あるいは、
「長く感じる時」
というそれぞれの考えを示す時に表すことであった。
ということは、今のが短く感じる時という考えであるが、長く感じる時、つまり、自分にとって嫌だったり、辛い時に、時間を短く感じることがあるとすれば、これは、
「脳汁:
という曖昧な感覚よりも、もっとリアルで、問題としては大きなものがそこに横たわっているといってもいい。
そう社会問題としても、大きな問題となっている、
「PTSD」
と呼ばれるものである。
これは、精神科においての立派な精神障害として、患者を治療しているものだ。しかも、これは大小の差こそあれ、ほとんどの大人は持っているのではないかと思われるものだといえるだろう。
PTSD、つまり、心的外傷後ストレス障害と言われるこの病気は、