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架空小説の一期一会

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 よくよく考えてみると、影というのは、光が差し込んだ時に、
「光によって作られるものである」
 ということだ。
 つまりは、
「自分から作り上げたものではなく、光によってもたらされた過程、一種のプロセスに他ならない」
 ということである。
 そして、それを映し出すものを影が指定することはできない。つまり映し出されたその物体は、平面でしかありえないということである。
 写真にしても、映像にしても、どんなに立体的に表現しようとも、立体ではないのだ。そこには、完全な、
「次元の結界のようなものが存在していて。高度な次元から、下等な次元を見ることはできるが、逆はありえない。つまり、見える方が高度な次元で、見ることができない方が、下等な次元だといえるのではないか?」
 ということであった。
 影は二次元と言われる平面世界のものであり。ただ見えているだけのものなのだ。そういう意味で、影は、三次元の我々と、光によって作り出された、
「創造物」
 でしかないということである。
 だから、目線が違うことで、まったく違う見え方がしたのだから、それも当たり前のことであろう。
 ただ、それと同じ考えで、鏡面効果にも同じことがいえるのではないだろうか?
 鏡面効果にも、明らかに光と影が存在している。いや、広い意味でいえば、形あるものは、すべて、光という恩恵を受けているといっても過言ではないだろう。

               時間の速さの問題

 さて、ここで皆さんは、疑問に感じたことがないであろうか? 同音異義語というのは、世の中にはたくさんあるが、この、
「かげ」
 という言葉にも同音異義語が存在する。
 同音異義語というのは、読んで字のごとしであるが、
「発音は同じだが、互いに区別される語」
 という意味である。
 つまりは、同じ「はし」と発音するものでも、川に掛かっているものは、
「橋」、
 そして、食事をするのに用いるのが、
「箸」
 さらには、中央から一番離れているものを総称して使う言葉が、
「端」
 であるというように、一つの発音でいくつもの意味のあるものがあるということで、それを見分けるのに、文字にすれば漢字というものが当てられるが、言葉に発する場合は、前後の文脈からの判断であったり、アクセントというか、抑揚によるところが違うことで、判断できる。
 抑揚に関しては、方言というものが存在するので、一言で言い表すのは難しいことであるが,、逆に、
「アクセントの違いで、その民族性を理解するのに、役立てる」
 という考えもあるくらいだった。
 そして、この、
「かげ」
 と発音する言葉であるが、思い浮かぶのは、
「影と陰」
 という二つの言葉ではないだろうか。
 影という言葉は、前述に書いた通りだが、陰というのは、前述のものとはハッキリと違っている。ある意味、
「まったく正反対の言葉」
 と言ってもいいかも知れない。
「陰は光が差し込まない場所のことですが、「影」は光が当たることによってできる、物体の形のことである。 「陰」とは、 ほかの物体によって隠れていて、光の差し込まない暗い場所 のことを指す」
 というのが定義ということになるのだろう。
 つまりは、
「影とは、元々あったものではなく、光によって出来上がったものであるということ、しかし、陰は最初から存在していて、影と違い、光によって隠れている、あるいは、光を隠れ蓑にして自ら隠れているという意思の持ったものも、含めて、陰と言っていいのだろう」
 そういう意味では、忍者のことを、影と言ったり、身代わりになる武者のことを影武者というが、本来の意味からすれば、その時に使う言葉としては、
「陰:
 の方が正しいのではないだろうか。
 さらに、
「影と言う言葉は、単独で使うことが多いが。陰という言葉は、陽と言う言葉の反対語として、それぞれでも単独で存在することはできるが、基本的に、その単体の言葉によって、その実際の力が完成されるかのように思える言葉」
 という意味合いが大きいのではないだろうか。
 それを思うと。山陽、山陰という言葉であったり、
「陽という言葉が昼間を表し、陰が夜だとするならば、それぞれに、同じ時間、この世界に姿を現すものではなく、一方が表にいる時は、一方が隠れているという意味で、絶えず、陽だけが表に出ていて、陰は隠れているものだという考え方ではないといえるのではないだろうか?」
 とも考えられるであろう。
 陽と陰のような関係は世の中にはたくさんあるが、その中でも代表的なものが、この二つであり、それらの総称としても用いられる言葉ではないかと考えられるのである。
 時間の速さを感じるというのも、一つである。
 この問題を考えた時、前述の、
「影と陰の違い」
 という同音異義語を考えたが、ここでも、同じように同音異義語が存在することで、その意味を考えていきたいと思う。
「「早さ」と「速さ」は正確に言えば違うものである。?語学的に言えば「早さ」は「速さ」の上位概念である。 「速さ」は速度に対する形容表現であり、「早い」はそれ以外の概念に対して用いられるのである」
 というのが、この場合の同音異義語の意味である。
 つまり、早さというのが、広義の意味であり、速さは狭義の意味に当たるといえる。
早さは、総称と言ってもいいのではないだろうか?
 そういう意味での同音異義語も結構あるのかも知れない。それも、
「頭の中ではその時々で納得はしているのだが、頭の中に印象として残らないことから、定着しないものなのではないだろうか?」
 と言えるのではないだろうか。
 ただ、一般的な早さという言葉は、速さという言葉とは、一線を画しているところがあるように思える。これは、
「陽と陰」
 という言葉のように、
「片方が表に出ている時は、片方は隠れている」
 というような、それぞれに反対の意味が隠されているということを示しているように思えてきた。
 つまり、
「速さと言う言葉は、必ずしも、早さの中に含まれるものだけではない、他にも意味するものがあるのではないか?」
 という考えであるが、ただ、その考えはかなり難しいものではないかと言えるのであった。
 そのことを考えると、
「速さが早さを凌駕するかのようなものもあっていいのではないか?」
 と考えるのは、かなり危険なのかも知れないが、ありえることである。
 早いと速いという言葉には、どこか相容れないものが存在し、
「交わることのない平行線」
 と形成しているのではないかと思えるのだった。
 これは単純に考えて、スピードが速いと、早いという考えには至るが、逆に、時間的に早いからと言って、そこにスピードが必ずしも絡むのかというと難しいところである。
 確かに、時間とスピードという発想からすれば、そのどちらも、直線ではあるだろうが、平行線ではないというのが、妥当な考えではないだろうか。
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次