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架空小説の一期一会

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 というが。その光景が、
「まるで、竜が天に昇って行っているように見える」
 という風に見えるということも相まって、日本三景として、称えられるようになったのだろう。
 また、股覗きの効果は、何も天橋立だからというわけではない。元々素晴らしい光景を逆さから見ると、ありがたい風景に見えるということで、威厳も倍増するというものだが、別に他で股覗きをして、錯覚を起こさないというわけではない。
 特に、上に空、下に海、それを水平線が一直線に横に伸びているというような光景の場所で股覗きをすると、最初は、水平線が、ちょうど視界の中間くらいの場所に横たわっていて、海と空が、半分ずつくらいの配分に見えるのだが、股覗きをすると、空が八割くらいで、海が二割というくらいに見えるものだ。
 これは、水平線に限ったことではなく、山と空というのを見ても同じことに感じられる。
この原理は。遠近感にあるのではないかと思っている。空と他の光景を見比べても、一番遠くにあるのは、空である。海であっても、山であっても、空が一番遠いところにあるという、いわゆる
「視界の限界は、空なのだ」
 ということで、一番遠くに見えるのが空だということを分かったうえで、普段は見ない、
「股覗き」
 などということをすることで、距離感が錯覚を起こし、それを補正しようとする働きが、距離感お違いを全体のバランスを崩すことで、納得させようという辻褄を合わせようとしているからであろう。
 人間による錯覚というのは、辻褄を合わせるという意味で、いろいろあるに違いない。
「光あるところに影がある」
 という言葉がある。
 つまり、この影が錯覚を呼ぶという考え方である。前述の鏡の錯覚においても、同じことがいえる。左右対称、上下対称の錯覚、いわゆる、
「脳が見る」
 というものも、
「部屋を暗くして、後ろから光を当てるようにすれば、右と左の錯覚もなくなるというものである。鏡に映ったものを、相手がこちらを向いていることで、相手の立場になって考えるからであり、それは中途半端な見方に過ぎない。相手の立場になって考えるのであれば、相手が見ているものを素直に考えるのではなく、自分の分身であると考えることで、そこにいるのが陰であると思えばいいだけなのだ」
 という理屈で考えられなくもないだろう。
 人間は、影というものをいかに考えていたというのだろう?
 影のないものは存在しないといってもいい、ただ、その影というのは、あくまでも、光を使って、人間自身が媒体になったことで作り上げられた虚栄のようなもの。この世に生があるわけでもなく、生のあるものが、生きているという証拠でもあるかのように存在しているのが影である。
 さらに、影というものは、実際に生きていないものにも存在している。
「形あるものには、必ず影が存在している」
 ということだ。
 それは、生のあるもの、ないもの、それぞれに関係がない。関係があるものとして考えられることとしては、
「その存在そのものに関係していることだ」
 と言えるのではないだろうか。
 たとえば、
「形あるものは、最後には滅びる」
 という、平家物語の冒頭でも有名であるが、元々は仏教用語である、
「諸行無常」
 というものを思い起こさせる。
 それは、生命というものでも同じこと、必ず老朽化して、朽ちていくということに他ならない。
 影というものは、
「そんな形あるものの、生命力を表しているのではないか?」
 という考えがあるが、信憑性があるなしにかかわらず、どうしても気になってしまうことであった。
 昔から言われることとして、
「死が近づくと、影が薄くなってくるのではないか?」
 と言われるが、果たしてどこに、その信憑性があるというのだろう?
 しかし、
「影というものが、存在しているもののすべての寿命を表しているのだとすれば、その発想には、大いなる信憑性が考えられる」
 というものである。
 そして、影というものを考えた時、どこかに違和感を覚えていたのだが、それが何なのかということを考えていると、ふと子供の頃から疑問に思っていたことがあった。
 これは、前述からの話に結びついてくるもので、一種の、
「錯覚」
 と同じようなものだが、最初に気づいたのは、小学生の時の、全体朝礼の時だった。
 朝、通学してから、週に一度の月曜日、全校生徒が校庭に集まって、校長の訓辞を受けるというものだが、クラス、学年ごとに、一定の距離を保って、整列することになる。
 その時、一定の距離を保とうとすると、まず目が行くのは、足元である。足元から伸びる影を見て、無意識に距離感を保っているのだが、その距離感を影に頼って見ることになるのだが、それは、皆共通で足元から影が伸びていることで分かることであった。
 だが、ある時、感じたことがあった。
「何か変形して見えるんだけどな」
 という思いであった。
「影が、細長く見えて。まったく本人とは違ってしか見えないのだが、これはどういうことなのだろう?」
 ということなのであるが、最初は、その違和感を感じていたはずなのに、
「何かおかしい」
 と感じることはなかった。
 あくまでも、違和感でしかなかったのだ。
 違和感にも、大きなものと小さなものがあり、そのまま、忘れ去るものもあれば、ある主観に一気にその信憑性が浮かんできて、
「これは、酷い錯覚じゃないか」
 と思うことが多い。
 考えていたはずのことを、どこまで自分で意識できるのかということが問題であり、錯覚と違和感が同じもののように思っていたが、そこに微妙な行き違いや勘違いがあるのではないかと思うのだった。
 その行き違いや勘違いは、思ったよりも奥が深く、その深さゆえに、すぐには思い浮かばないのだろう。
 最初にその思いが抜けてしまうというのは、ひらめきによるものなのだろうが、我に返るといえばいいのか、それとも、逆にそれ以上、踏み込んではいけないところがあり、その時点で我に返るということなのか分からない。
 もっとも、ここまで深く考える人はなかなかいないとも思うが、不可思議なことや、違和感をいかに立ち止まって考えることができるのか、考えない人と比べれば、天と地ほどの違いがあるのではないかと思うのだった。
 影に感じた違和感は、まったく違って見える感覚だったのだが、最初はなぜなのか分からなかった。
 しかし、そこでじっと見ていると、影の色が最初に比べて、次第に濃くなってくるのを感じた。
「これはきっと、自分が影をじっと見ていて、そこから視線を外すことができなくなったからなのかも知れない」
 瞬きをしないなど、もちろん、ありえないことであるが、それこそ、
「瞬きもできないほどに凝視している」
 と言ってもいいくらいであろう。
 そのことを考えると、目の前にいる影によって作られた異様な形も、影に変わりないが、それは、自分の視点で見る影とは明らかに違うものだった。
 そして、なぜなのかは、少し考えれば分かることだった。
 ということは、
「自分でなくても、誰にでもわかることに違いない。つまりは、どこまで真剣に深く考えることができるか?」
 と考えられる。
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次