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架空小説の一期一会

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 歴史的には、壇ノ浦の合戦で、都落ちした平家一門と、幼少の安徳天皇が入水した際に、三種の神器も一緒に赤間が席(今の関門海峡)に沈んだとされるが、草薙剣だけが見つからなかったと、当時の歴史書である、
「吾妻鏡」
 には、書かれていると同時に、口伝されているのである。
 そんな鏡であるが、朝鮮半島から渡ってきたものとしては、
「三角縁神獣鏡」
 などが有名であるが、当時の鏡は自分を映し出す以外にもいろいろな使い道があったに違いない。
 特に、祈祷などという儀式には、かならず鏡が用いられていて、
「鏡を見ていると、金縛りに遭ったりした人もいる」
 という、信憑性がどこまであるのかが疑問のような話も聞かれたりしたことも結構あった。
 とにかく、鏡というものが、これ以上ないというほどに、忠実にものを映し出すことができるのだから、初めて鏡というものをが発明した人は、すこかったに違いない。
 鏡がなければ、自分を映すものは、水を張った容器に顔を持っていくくらいしかなかったのだから、水面に映る姿の敬意を表しながら、それに代わるものがないかと暗中模索を続けていたに違いない。
 鏡というものに不思議な感覚を感じるのは、今も昔も同じことで、まず一番きになるのは、
「鏡を通して見た時、左右逆になっている」
 ということであろう。
 自分は右手を挙げているのに、鏡を通すと左手を挙げているように見える。そして描いた絵や字までもが、左右対称となっているのは、不思議なことのように思うが、当たり前のことでもあるのだ。
 それは、鏡と、被写体の距離が、見ている目からみれば、同じに感じるということを考えれば、それも当たり前のことに思える。そういう意味で、
「不思議なことのように思うが、実は当たり前のことなのだ」
 と感じるのだ。
 しかし、これが、上下ということになると、まったく正反対のことに思えてくる。
 なぜなら、
「左右が対称であるのなら、なぜ、上下も対称にならないのか?」
 という疑問があるからだ。
 これは前述の左右対称と違って、
「当たり前のことに思うが、実際には、不思議なことである」
 と言えるのではないだろうか。
 確かに、左右対称の時と同じ感覚で、鏡までの距離を等しく考えるから、当たり前のことのように感じるが。
「それを理論的に説明してもらいたい」
 と言われれば、うまく説明することができるのだろうか?
 それが不思議なのであった。
 実際に、いろいろと難しい話ではあるが、幾何学的には証明されているとも言われるが、認知心理学ではまだまだ証明されていないとも言われている。
「鏡との距離」
 という前述の考え方を用いれば、この問題も解決するというものであるが、
 実際に、上下が反対にならない理由の中に、まったく関係のない感覚が含まれているのではないかとも考えられる。
 一般的に考えられているのは、
「目が二つあって、その目が水平、つまり左右についているからだ」
 という考えが主流であるが、実際には、
「見る視点」
 というのが、問題だと言われている。
 そして、その謂れのもう一つの理由として、
「見るということは、目で見るわけではなく、目に映ったものが、頭に伝わって、脳の中でみるものである」
 ということなのだ。
 つまり、脳というのは、
「鏡の中の自分」
 の支店に変換して情報を伝えるので、左右が逆になったかのように感じる。
 という考え方である。
 つまり当たり前に見えるのは、自分の目が判断したわけではなく、脳が、
「不可思議なことを、いかに当たり前のように思わせるかのように辻褄を合わせようとしているからだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そういう意味で、普段から意識をしていないことでも、不可思議なことはたくさんある。今まで不思議だと感じたことのないことでも、少しでも不可思議に感じてしまうと、どれほどの疑問が溢れてくるのかということであろう。
 一つ不可思議なことが起こると、そこから芋づる式に、いくつも出てくるのだから厄介なことである。
 そもそも、
「目が左右にあるから」
 という説がウソだというのは、横になって鏡を覗けばすぐに理解できるということであった。目の位置に由来するなら、この状態で上下が逆にみえるはずだが、なにも起きない。上下が変わらないどころか、脳は「自分が寝そべっている」ことを冷静に判断し、鏡が壁からはえているとも感じない。
 そして、上下を反転させるためには、平面ではダメなのだ、凹面鏡のような鏡が必要で、実際にはレンズで見ると、それが証明されることになる。つまり、視界に絶対的に必要な、光というものが影響してくるということであろう。
 人間の目にもレンズがついている、そして、理屈は同様であるため、スクリーンの役目をする網膜には上下左右が逆に映しだされていることになる。
 つまり、人間が見ている光景は、実際には逆に見える構造なのに、脳がそれを補正して、辻褄を合わせる形で意識させられているのだ。
 人間はそのことに気づいていないのが、実際ではないかと言われている。
「人間の五感、特に視覚は、最後には脳が判断する」
 ということを考えれば、一つの疑問も解決されるかも知れない。
 それがいわゆる、
「サッチャー錯視」
 と呼ばれるものである。
 サッチャー錯視というものは、
「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」
 と言われるもので、特に人の顔の写真などをさかさまから見ると、まったく違って見えるという感覚である。
 これは完全に錯覚であることは分かっている。それは特に表情豊かな人にありえることではないだろうか。人は笑った時、口元が緩んだり、目元にしわが寄ったりする。どこから、感情が一番最初に表情に現れるのかは分からないが、口元と、目を見れば、大体は分かると言われるであろう。
 しかし、さかさまに見てしまうと、降格などが逆になってしまい、その表情がその一部分を錯覚してしまったとすれば、そこからすべてが錯覚することになり、脳に働きかけた残像は、勝手な補正をしてしまうことで、まったく違った感覚に見えてしまう。それを認めたくないという思いから、わざと錯覚を覚えたように感じさせ、それで辻褄を合わせようとしているのかも知れない。
 この感覚は、半分以上、作者の感覚が入っているが、賛同いただける人も多いのではないかと思うのであった。
 さて、この逆さから見るという感覚であるが、これは、平面である写真や絵で見たとして、どこまでがリアルに感じられるであろうか。これが立体である風景などであれば、また違ったものが生まれてくるというものだ。
 日本三景といえば、
「天橋立」
「松島」
「安芸の宮島」
 というのが有名であるが、このうちの天橋立というところは、
「股覗き」
 というものが名物であるという。
 写真などで一番有名な、向こう岸まで伸びている細長い道の光景があるが、
「股覗きの名所」
 として有名なところから、後ろ向きに立って、身体を前に腰から傾けるようにして、そこから股に手をかけて見ると、逆さの光景が浮かび上がってくる。これを、
「天橋立の股覗き」
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次