架空小説の一期一会
「やはり、本当の意味での一期一会など、自分にはなかった」
と考えないわけにはいかなかったのだ。
大団円
最近、運命というものと、何かの超常現象を一緒にして考えるようなくせがついた気がする。
いくら趣味とはいえ、小説などを書いていると、
「視界がどんどん狭まってきているような気がする」
と感じるのだ。
というのは、小説を書いている時というのは、集中というのが、不可避である。
気が散ってしまうと、そこで手が止まってしまって、手が止まると、そこで一度思考が切れてしまう。だから、書き始めると、一気に書いてしまわないと、そこで先に進まないという意識が出てしまい、逆にいえば、
「書き続けさえできれば、少なくとも、その時に書こうと思っている範囲までは、一気に書くことができる」
つまりは、時間に対しての書く量というものが、計算できるのである。
他の人はそんなことまで考えていないだろう。
時間を決めて、一時間なら一時間集中していく中で、どれだけの範囲書けるか? ということであったり、大体の量を決めて、
「原稿用紙十枚なら十枚書くまでが一区切り」
という感じである。
後者であえば、やはり集中できないと目標には達しないが、前者であれば、逆に、目標には達するが、自分の満足のいくものは書けないということになり、不完全燃焼が、意識をストレスに変えてしまうことになる、
それを思うと、小説を書いている意味がなくなってきそうで、あくまでも、目標の積み重ねが、最後には一つの作品としての完成を見ることになるのだ。
そこにもちろん、達成感というものがついてきて、それを味わいたいがために、しっぴいつをしているのだった。
達成感が、自己満足であっても、全然いいと思っている。
別に、出版するわけでもない。編集者が絡んでくるわけでもないし、ましてや、お金を取るわけでもない。
それだけに達成感を得るための最大の目標が、作品の完成であり、完成したものが、すべてだといってもいいだろう。
「これこそ、自分にとっての一期一会だと言えないだろうか?」
何も、人との出会いだけが、一期一会というものではないはずだ。
小説を書くということが、一期一会であってもいいのではないだろうか?
「じゃあ、この場合の一期一会というのはどこに当たるのだろう?」
最初の書き始めになるのか、それとも、完成し、大仏でいえば、開眼のところになるというのか、それとも、作者の中で、作品の構図が意識できた瞬間をいうのか、この場合は作者以外の誰にも感じることのないもので、その方が、
「一期一会にふさわしい」
と言えるのではないかと思うのだ。
ということは、
「完成した時というよりも、構図が自分の中で見えた時が、すべての始まりとしての、一期一会だ」
と考えていいのかも知れない。
そうなると、一期一会は、作品の数だけあるということになり、その数h莫大なものになるのだが、それでいいのだろうか?
小説を書き始めて、約二十年という歳月。いや、それはあくまでも、データとして残し始めてだということだ。
本当に最初に書けるようになった時の頃を思い出すと、
「俺ってひょっとすると天才ではないか?」
という錯覚を起こすほどの歓喜が自分を包んだ。
小説家だって夢ではないと思いもした。
それだけ、小説を最後まで書き上げるということが、どれほど難しいかということを身に染みて分かったのだ。
最初の頃は、何をやっても書き上げることはできなかった。
「本当にこんなことをしていて書き上げることができるんだろうか?」
と、絶えず考えていた。
作品を曲がりなりにも書き上げることができるようになるまで、敢えて、ハウツー本は見なかった。
「一つの作品を最後まで書き上げることができたところがスタートラインなんだ」
と思っていたからだった。
だが、さすがに書き上げることができた時、気分的に、かなり舞い上がったものだ。
「小説家だって夢ではない」
と思うと、自分が、有名小説家になって、書いている後ろで編集者の人が、見張っていて、
「先生、今日が締め切りですよ」
と分かり切ったことを言われて、
「ああ、分かっているよ」
と言いながら、そんなに後ろから見られていても、集中できるくらいにならないと、プロの小説家などになれるわけはないのだ。
ここまでは、あくまでも、
「プロになるため」
というステップでしかないのだ。
「プロとして、書き続けることができるには」
ということであれば、果たしてどこまでが、段階を追うことになるのかということを次第に感じられるようになるのだろう。
実はこの間の結界が一番超えるには難しい結界なのかも知れない。
新人賞を受賞して、プロへの登竜門を突破してから、次回作を書こうとしても、
「新人賞作品よりもすごい作品が書ける自信が自分にはない」
と思っている人も少なくはない。
何しろ、
「小説家になりたい」
という目標のステップとして、
「新人賞入選」
が一つの目標だったくせに、
「新人賞を取ってしまうと、そこで気が抜けてしまうというか、賢者モードになってしまう場合が多いのではないか?」
ということである。
そもそも賢者モードというと、
「男性が、ため込んだ性欲を果てさせた時に、陥る感覚を賢者モードというのだが、それは、貯めたものを一気に放出するという意味で、集中を重ねて書き上げたものも、一種の男性による性欲の放出と似ているのではないか」
やり遂げたという感覚が、それ以上ないという達成感がそおまま脱力感に代わり、下手をすれば、憔悴してしまうというものである。
そんな、
「賢者モード」
に作家というのは、往々にして陥ることが多いようで、プロの作家の先生でも、作品を書き上げて、その作品を世間は、
「素晴らしい作品だ」
と言って評価してくれたが、作者本人は、そんな感覚はなく、まわりから、
「素晴らしい」
という称賛を受けるたびに、賢者モードが深まっていって、抜けることができなくなってしまうと、鬱状態に陥ってしまい、誰かと接触するのが、たまらなく嫌になるものだ。
それこそ、賢者モードにおいて、果ててしまった局部をいじられると、むず痒い気持ちになって、さらに、賢者モードが深まっていくというものである。
そんな状況を考えていると、
「賢者モードの中にある鬱状態というのは、まるでパンドラの匣のようなものではないか?」
と考えられるのだった。
パンドラの匣を開けると、そこには、ありとあらゆる不幸が飛び出してくる。
しかし、その底には、何かが残っているのだ。
それを希望や予見として解釈するとされているが、予見であれば、それは本当にいいことなのだろうか?
「知らぬが仏」
というではないか、結果として滅亡するということであれば、それを最初から分かっているというのは、この上もないプレッシャーで、抜けることができないと分かっているものを、必死になって抜けようとする、トンネルの中にいるも同然である。