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架空小説の一期一会

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 特にこちらに好意を持っていたのだとすれば、それだけ、一緒にいた時は、満面の笑みであったり、こちらを慕っているような表情で、だからこそ、相手を好きになったわけで、そんな最高の笑顔のまま、普通に歩いているということはありえないというものだ。
 だから、きっと、あった時の笑顔からは、想像もできないほどの無表情であり、下手をすれば、一気に萎えてしまうような顔なのかも知れない。たとえ隣をすれ違ったとしても、二人とも分からないなどということは、往々にしてありえることである。
 では、逆に合いたくない人との再会ではどうだろう? 意外とこっちが遭いたくないと思っている相手はこっちを探していることが多い。だから、隠れようとするからである。
 相手に弱みを握られている。借金がある。相手に何か都合の悪いことをしてしまった。などという理由がいろいろ考えられるが、そんな時はまず間違いなく、相手は血眼でこっちを探していることだろう。
 こちらが何かの事件の容疑者か何かになっていたとすれば、警察がその権力を使って、全力で探そうとするわけで、ほぼ逃げることはできないだろう。
 普通に誰かを頼るなどできるはずがない。相当早い段階で、警察が目をつけて、見張っているはずだからである。
 そんなところにノコノコ出ていくくらいなら、最初から隠れない方が、後々の心象はいいだろうからである。
 とにかく、会いたくないと思っている相手は、ほぼ、こちらを探しているはずだ。
 こちらが見つける前に相手がみつける。ただ、こちらも捕まりたくないから、追手には十分に気を付けるはずだ。相手と会いたくないという理由には、いろいろ考えられるが、逃げられない可能性の方がかなり高い。前述おように、立ち回り先にはすべて、相手の手が回っていると見ていいからである。
 そうやって考えると、会いたいと思っている人と再会できる可能性と、会いたくないと思っている相手と出会ってしまう可能性は、限りなく、会いたくない相手の方が高いというのは、理論的にも、証明されているも同然であろう。
 ただ、これはあくまでも、会いたくない相手が、必ずしも自分を探しているという場合である。
 実際にはお互いに避けているだけの場合もあるだろう。
 ただ、これも、可能性としてはかなり高いのではないだろうか?
 お互いに遭いたくないと思ってそれぞれを避けているわけだから、それぞれに相対して負の要素を持っている。だから、限りなくゼロに近いところに結界があるとすれば、二人とも、負の方にいるわけである。
 そうなると、かなり狭い範囲で相手を探しているわけなので、相手がこちらを見つけるのは時間の問題だといえるだろう。
 遭いたい人とは、会える確率はほとんどないのに、会いたくない相手とは、こんなにも同じところをウロウロすることになるなど、本当に皮肉にできているものである。
「運命は悪戯好きだ」
 と前述したが、この考えもまんざらでもないかも知れない。
 運命というものを理論で考えようとすると、意外と、簡単に公式は解けるのだろうが、その中に、悪戯というものを、信じたくないという思いが強ければ、悪戯が悪戯ではなくなる。
 悪戯と言う言葉でかたずけられる問題ではなくなるのだが、それを自分で求めたくないという思いから、
「運命の悪戯」
 という言葉を、あたかも信じているような素振りを見せることは、ただのやせ我慢だと思ってもいいのだろうか?
「運命の出会いなど本当にあるのだろうか?」
 と考える。
 茶道の言葉で、
「茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する」
 ということで、茶道に限らず、
「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉」
 としてもちいられる言葉で、
「一期一会」
 というものがある。
 たった一度の機会だから大切にするということなのだろうが、本当に一生に一度だなどと思っている人は少ないだろう。
 それはあくまでも、
「初めて会った時」
 という意味で、とにかく最初というのは、何においても大切なことであり。
 先述の、先駆者、パイオニアというのも、そういう意味では、この一期一会と言う言葉とも結びついてくると考えれば、他のいろいろなことも、この言葉を中心に考えれば、結びついてくることもあるのではないだろうか。
 作者が以前に著した小説である、
「クラゲの骨」
 というのもそういう意味であった。
 珍しいことやあり得ない物事のたとえとしての、クラゲの骨という言葉、
「人の身には、命ほどの宝はなし。命あればクラゲの骨にも申すたとえの候なり(命があれば、クラゲの骨にも会うだろう)」
 と言ったということもあるのである。
「だが、果たして、自分の中で、本当に一期一会を感じさせるような出会いを感じたことがあっただろうか?」
 それは作者だけではなく、誰もが思うことであろう。
 そもそも、
「一期一会というものは、その出会いの瞬間に感じるものなのだろうか?」
 後になって、
「あの出会いが一期一会だったんだ」
 と感じることが多いのだろうか?
 そのあたりを分かっていないと、思い出そうとしても、その出会った瞬間のことを思い出せるものではない。
 日ごろから、
「この出会いが一期一会なのかも知れない」
 と思いながら人と会っていると、後で思い出せるものだとすれば、今までにあったかも知れ会い一期一会を見逃しているかも知れないと感じるのだ。
 もう一つ考えるのは、
「一期一会というものは、本当に、最初の出会いだけものなのだろうか?」
 というものである。
 最初に出会った時はさほど相手おことを考えておらず、いや、むしろ、
「どうせ、もう二度と会うこともない相手なんだから」
 と言って、最初の出会いを軽視していたが。その後何かの偶然で再会した時、
「運命なのか?」
 と思ったその時が、その人にとっての一期一会なのではないかと言えないのだろうか?
 あくまでも、本当の最初に出会った時しか一期一会としか言わないのだとすれば、
「本当に一期一会など、自分にあり得ることなのだろうか?」
 と考える。
 なぜなら、まず誰かと最初から、
「運命だ」
 などと感じたことはなかった。
 何度か出会っているうちに、やっとそこで運命を感じるのである。
 そもそも、作者は、人の顔を覚えるのが、致命的に苦手だった。
 だから、二度目の出会いも、気づかずに通り過ぎてしまうくらいで、相手から声を掛けられて、ハッとして気づくと、声を掛けられたことに喜びを感じ、それを運命だと感じることだろう。
 そういう意味でも、運命と一期一会が同じ次元で考えられるものだとすれば、運命の中の最初の出会いだけだと考えてしまい、そうなると、
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次