架空小説の一期一会
また、陰と影などのような、同音異義語であっても、まったくの正反対でるがゆえに、昼と夜のように重なることのないものも、まるでクラゲの骨のように、非常に珍しく、あり得ないと思えるようなものを感じるというのは、偶然だと言い切れるのだろうか?
いろいろな話を書いてきて、一期一会というものを考えてみると。一期一会というものをどのタイミングで感じるのかということも大きな問題になるのではないだろうか。
賢者モードというものを、以前は、あまりいいものだとは思っていなかった。
絶頂を迎えたことで、最後に賢者モードになって、やつれたような気分になるのが、自分を鬱状態に落とし込むことではないかと思っていたが、果たしてそれだけのことであろうか?
賢者モードに陥るということは、我に返ることで、理性を思い出すということだ。絶頂を迎えるまでに訪れる快感は、まるで麻薬のような、覚醒効果をもたらすものだ。
果たして、それを悪いことだとは言えないだろう。
覚醒することで、何かを成し遂げるのであれば、それに越したことはない。しかし、その代償として襲ってくる。禁断症状は耐えがたいものがあるのだろう。
賢者モードも一種の禁断症状に近いものではないだろうか。
自分がどんな人を好きになるか。好きになった人に対してどのような態度を望むのか。想像は、妄想にしかならない。どんなに想像しても、自分の都合のいいようにしか考えられないようになるからだ。
賢者モードと、一期一会、まったく正反対のもののように思うのだが、人との最高の出会いがあったとしても、絶えず、絶頂気分でいられるわけはない。必ずどこかで、息を抜く瞬間が存在し、そこで、賢者モードが発生する。
その時、復活のタイミングを間違えると、鬱状態に入り込む。
何をやっても、、違和感しかなく、動くこと自体が、罪悪に感じられる。それが禁断症状時に起こる、賢者モードであろう、
禁断症状の時に、賢者モードになるというのは、ある意味矛盾した考えだ。
賢者モードになると脱力感しかなく、その時に、何をやっても虚しさしか残らないという鬱が襲ってくるのだ。そうなると、起こってくるのは、
「負のスパイラル」
普段のルーティンでさえ、気持ち悪いものになってくるのだ。
賢者モードがまさしくそういう状態なのだろうが、人との出会いを一期一会と考えた時、鬱状態をさらに深いところにいざなう状態は、賢者モードと一期一会さらに、鬱状態における。
「三すくみの状態」
に陥っているといってもいいのではないだろうか、
三すくみというのは、それぞれに利害関係があり、つまり、強、弱の関係がハッキリとしていて、その三つかけん制しあうことで、動きが取れない状態をいう。
膠着状態と言ってもいいのだろうが、完全なバランスによるものなので、どれかが崩れると、一瞬にして、勝負は決まってしまうのだ。
「自分にとっての、三すくみが何であるか?」
というと、
「人間関係だ」
とほとんどの人は思うだろう。
しかし、一人の人間の中にも三すくみは存在し、その均衡のおかげでできた膠着状態が、三すくみを作り出し、
「動いてはいけない」
という時に自重できる本能を促しているのかも知れない。
三すくみの話は作者も結構書いてきたが、いろいろ書いているうちに、
「何か究極的な結論のように思える」
という感覚に繋がってくる。
だから、三すくみの話がどうしても多くなってくる。
最初から、つまりはプロットの段階からという意味で、プロローグとしての三すくみであったり、書いていて、他の発想から生まれてくる三すくみであったりと、それぞれの発想が、小説に膨らみを持たせたりする。
だから、書いている最中に思い浮かぶことが多いのだ。
三すくみの発想は、躁鬱状態の発想から生まれてくるものもある。そういう意味で、作者の小説にもかなり躁鬱状態の話もあった。
「交わることのない平行線」
であったり、
「限りなくゼロに近いもの」
という発想が多いのも、どこか一つ根底に何かがあるからであろう。
その時には分かっているつもりでも、我に返ると忘れてしまう。それが自分の小説であり、
「いいたいことだ」
と言えるのではないだろうか。
作者はこれから、どのような発想が頭に浮かんできて、そして切れ目なく起こる発想で、どれだけの小説を書いていけるか楽しみである。
作者にとっての、一期一会は、作品との出会いであり、書き上げた時の達成感になるのだから……。
( 完 )
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