架空小説の一期一会
それからは、親のいうことをあまり聞かないようになった。ただそれでも、
「悪いことしたかな?」
という罪悪感が若干残っている。
親の方も過保護なのだろうが、子供の方としても、親離れができていないのだろう。
ただ、このままいけば、親の方が子離れできなくなってしまって、ヒステリックな状態が続くと、いずれは家庭崩壊などということになったとしても、不思議のないことであろう。
そんな自分が、
「母親とは、まったく正反対だ」
と感じるようになったのは、友達の家で餃子をごちそうになったその時がきっかけだったのは間違いないだろう、
そして、改めて母親を見ていると、
「俺とは正反対ではないか?」
と思うようになった。
実は、それはそれでよかったと思っている。もし、親と同じところがあれば、親に対して、必要以上な恨みを持つ必要はなく、今のような怒りや憤りを感じてもいいのだと思うには、同じところがないほど、自分を納得させることができるからであった。
だから逆に、自分のことがよく分からない時は、母親を見て、
「その反対なんだ」
と思えば、見えてくるというものであった。
母親が自分の反面教師であり、自分が見えないところを映し出すための、鏡のような媒体として役立ってくれていると思うと、怒りや憤りとは別のものが浮かんできそうに思うんであった。
「人のことはよく分かるのに、自分のことは結構分からないものなんだよな」
というのは、前述の疑問であったが、この時にも同じことを感じた。
こっちの方が先だったのだろうが、最初は他人から聞かされたことで気づいたことだったので、そこまでハッキリと自分の意識としては残らなかったのだろう。
「好きなものを飽きるまで食べる性格だ」
と言ったが、それは好きなものすべてだというわけではない。
もちろん、食べ物のことであるから、同じ、
「好きだ」
というものにも、種類や限度というものがある。
味覚にも、甘いや辛い、酸っぱいなどと言った種類があり、同じ甘いものでも、好きなものと嫌いなものがある。
甘いものと言っても、チョコレートやあんこは好きだが、乳製品系統は嫌いだという、人間だっているだろう。
「僕は甘いものが好き」
と漠然と言って、ミルク系のものを出されると、
「ごめんなさい。乳製品はダメなんです」
と言って断るしかなかった。
無理して飲もうとすると、きっと吐き出すのは分かっているので、そんな汚いことをすることを思えば、正直に言った方がいいに決まっている。相手は、少し不機嫌な顔をするだろうが、黙っていて、我慢して飲もうとして、目の前で吐き出してしまうと、
「ほら、何してるのよ。嫌なら嫌っていえばいいのに」
という罵声を浴びるくらいなら、不機嫌な顔をされる方がマシだと思うのだ。
「じゃあ、もし、親が自分の立場だったらどうするだろう?」
と考えた。
「顔を真っ赤にしながら、何とか我慢しようとして、飲むだろうか?」
と考えたが、そんな切羽詰まったような母親の顔を想像できなかった。
「いや、想像したくない」
という思いが強いのではないだろうか?
あくまでも、自分と正反対の性格なのだから、きっと嫌なものでも勧められたら、断れないだろう。だからと言って、苦悶の表情が想像できるものではない。
そうなると、見てはいけないものを見てしまったような気がして、それまでの自分の中にあった母親との比較に矛盾が生まれてきて、何をどう解釈すればいいのか分からなくなるだろう。
それが嫌なので、嫌なことを想像するというような感じにはなれなかった。
「この感覚は、他の人にもあったんだろうな?」
と感じたが、
「それは、これが親離れをするための一つのきっかけに違いない」
と感じたからだ。
意識的にであっても、無意識にであっても、親と自分を比較するというのは、まだ親離れができていないからだろう。
これは親にも言えることであって、きっと親も自分と比べているに違いない。親であるがゆえに、それが生きがいなどというものであったとすれば、それができなくなると、自分でもそうすることもできなくなるのではないだろうか。
子供の立場からもそうなのだから、親の方はもっとひどいだろう。
だが、そこまで子供が考えなければいけないのだとすれば、親の責任というのは、かなりのものに違いない。
子供が親に対して感じることは、
「親だって、自分の子供時代があったはずだ」
ということであった。
今の自分と同じようなことを自分の親にも感じていたはずなのに、親になれば、そんな気持ちをすっかりと忘れてしまうものなのだろうか?」
と感じた。
だが、逆に、
「母親の親とは性格が正反対だったことで、反発心を持ったために、自分が親になったら、自分の親のようにはならない」
と考えているのかも知れない。
こちらの方が、自分にはしっくりといく。なぜなあ子供の頃の自分が感じていたのは、
「自分の親のような、そんな親には、自分は絶対にならない」
ということである。
ということは、母親の親も、まったく違った性格だったのかも知れない。そう考えると、おじいさん、おばあさんの性格が自分と同じではないかと思ったが、それは一概には言えないだろう。
「反対の反対が、今の自分だ」
ということになるとは限らないからだ。
「一引く一がゼロになる」
という単純な算数の計算とは違うのだからである。
そして、違う人間なのだから、
「引き算をして、絶対にゼロになることはないだろう」
という思いがあった。
その感覚が、
「今が親離れだ」
と思えたのだろうが、親はそんな素振りはないようだった。
「どうせ、これからもも口を出してくるんだろうな」
と思うと、何とも億劫であり、かといって、下手に逆らって怒らせるとこのも、納得がいくことではなかった。
基本は、
「僕のためにしてくれていることなんだ」
という思いがあり、それを鬱陶しいという理由だけで、遠ざけてしまうと、母親を追い込むことになるのは必至で、何とか、本人が納得のいくような形に収めてあげたいと思うのだが、そう思っている自分に憤りを感じている。
「なんで勝手にやっていることに、こっちが合わせてやらないといけないんだ?」
という感覚である。
最終的に、
「親バカというのは、一種の病気なんだ」
と思えば。少しはいいのかも知れないが、まだ憤りの理不尽さが残ってしまう。
つまり、
「親を納得させるということは、同時に自分を納得させない」
ということになるに違いない。
飽きるまで食べ続けるという性格は、きっと、
「自分を納得させるには、飽きるまで続けるしかない」
という結論めいたことを思いついたからなのかも知れない。
中学生の頃は、親の介入に関して考えている自分が嫌だった。
「なんで、俺がこんな余計なことを考えなければいけないんだ?」
という思いがあった。
親のことは、しばらくは思い出さないようにしていた。だが、嫌でも思い出させることになったのは、あれは、大学を卒業してから、就職した二年目くらいの頃だっただろうか?