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架空小説の一期一会

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 だから、ドラマの撮影前に、脚本家が書いたものを監督やプロデューサーが見て、いろいろな注文を付けることになる。
 小説の場合は、判断するのはすべてが読者であり、出版社が介入するのは、最初の企画段階までで、そこから先、執筆に掛かると、編集者側からは、ほとんど何も言われることはない。さすがに上がった原稿を見ることもあるだろうが、出版ギリギリで上がってきた作品を見る時間がなかったりする。
 そこが、小説と脚本の大きな違いだ。
 しかも脚本というのは、
「ドラマを作るうえでの、一つの駒でしかない」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 だから、脚本家が小説を書いたり、小説家が脚本を書いたりすることは、ほぼないといってもいいだろう。
 テレビドラマの製作場面など見ることはないので、こちらもあくまでも想像になるが、以前、作家と脚本家のそれぞれの話が乗っている本があったが、そのあたりの話を書いていた。対談ではなく、別々の取材に答える形だったので、ほぼ信憑性があると言ってもいいだろう。
 冷静に考えても、辻褄の遭っている話に聞こえるので、その通りだと思う。
 さて、前述の野球ファンなどであるが、昔から人気のあったチームは今もそれなりに人気がある、だが、昔のように、
「他のチームやリーグは、ほとんどテレビ中継がないので、まったく知らない」
 ということはなくなった。
 しかも、テレビ中継がなくなってきた頃から、特にパリーグなどでは、サッカーJリーグの主旨のような、
「地元密着型のチーム」
 が増えてきた。
 チーム名は基本的にはスポンサー名だが、その上に地域の名前がついていたりすることが多い、地域としても、それぞれの県であったり、東北や北海道のような地域が名前についていることが多い。
 それだけ、地元密着をアピールするものであり、今までのような、人気チームにファンが集中することもなくなってきたのだ。
 昔から人気のあるチームには、ファンというのがもちろんいて、そして、ライバルチームの存在がある。そのライバルチームのファンというのはそのほとんどが、人気チームのアンチだといえるだろう。
「もし、人気チームのファンが野球ファン全体の三割だと仮定すると、アンチファンというのは、残り七割すべてではないか?」
 と思っている。
 それは、ライバルチームのファンが、ほとんど、そのチームのアンチだということが分かっているからだ。
 これは野球に限ったことではない。
 政治に対しても同じことがいえるのではないだろうか?
 皆が皆、そうだとは言わないが、
 与党である自民党の支持率が、三十パーセントだとすれば、不支持は七割ということになる。
 不人気政党になればなるほど、支持率も低く、不支持も低いというものではないか。
 野党の政党で、
「支持率が一パーセントであったとすれば、不支持は九十九パーセントか?」
 ということになるが、そんなことはありえない。
 不支持も支持とほぼ変わらないくらいにとどまるのだ。
 それだけ、国民の関心は薄く、
「どうでもいい政党だ」
 ということになるのだ。
 ということは、
「アンチファンも裏を返せばファンの一種である」
 と言えるのではないだろうか。
 嫌いだということは意識しているということであり、
 例えば、ライバルチームが今年、なぜか調子よく、首位を走っていたとして、人気チームが最下位に沈んでいたとして、ライバルチームのファンが、人気チームに対して、真剣に、
「ざまあみろ」
 と思うだろうか?
 どちらかというと、
「人気チームを倒してこそのわがチーム。いくら首位にいたとしても、人気チームが弱ければ、喜びも半減だ」
 と、半分、やる気をなくしたかのように思うのではないだろうか。
 つまりは、
「アンチファンというものは、必要悪のようなもので、いればいるで、厄介なものだが、いなければ、やる気も失せるというものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 野球中継に限らず、テレビ界の迷走は、視聴率だけを見ていて、視線が一点に集中しているように、野球を見ているファンだけではなく、アンチファンの存在を見逃していたことから考え直さなければいけないのではないかと思うのだった。

                 飽きるまで

 同じものを飽きるまで続ける人間がいるが、読者諸君はどうであろうか? 先者としては、けっこう同じも尾をずっと続けることが多かったりするが、それも、時と場合によるのかも知れない。
 例えば食べ物。
 学生時代の学食で気に入ったメニューがあれば、ずっとそればかりを毎日、半年以上続けても別に嫌ではなかった。きっと自分にその味付けが完璧に合っていたのだろう。
 しかし、人間には慣れというものがあり、どんなに好きにものであっても、食しているうちに、その味が舌に慣れてくる。
 当然、人間には順応性というものがあり、そのものに慣れるために、食事であれば、嫌いなものは、なるべく食べやすく、好きなものは、さらにおいしく食べれるように、身体が慣れようとするであろう。
 ただ、それ以上に贅沢にできているもので、一度食べた味は、次に食するもののために、無意識に覚えていた李するのだろう。そう思うと、次に食べた時、
「この味は、この間食したものだ」
 と、身体も頭以上に納得するのだろう。
 頭で考えている分には、それほど意識はないが、身体から味覚を通して繋がった意識の中で、
「同じ味であれば、少しは違いを感じたい」
 と思うものなのか、必死に違いを探そうとするのかも知れない。
 そうする時に、身体からの神経は、
「ああ、またこの味だ」
 と考えるのであろう。
 その時、違った味を身体が感じることができたのであれば、さらにおいしさが持続していて、
「次もまた食べたい」
 と感じるに違いない。
 人間には、順応性とともに、学習能力があり、学習能力によって、記憶された味覚が、順応性で、
「同じものを食べた時に、どのように感じるか?」
 ということなので、ここから先は個人差が生じる。
 この個人差の部分をいかに自分が順応させるかで、
「好きなものであれば、毎日でも続けられる、いや、続けたい」
 と思うのか、それとも、
「毎日は続けたくない」
 と思うのかということである。
 これは、その人の性格というところが影響しているのかも知れない。
 石橋を叩いて渡ったり、絶えず、目の前のことを、一歩泊って考えたりするような、
「堅実派」
 と呼ばれるような人は、きっと、
「毎日同じものは続けない:
 と思うだろう。
 それは、気持ちの中では、
「今日も食べたいな」
 と思うのかも知れないが、
「毎日のように続けて、二度と見たくなくなるほどにまでなりたくはない」
 と思うのだ。
 ただ、それを分かったうえで、
「それでも毎日食べたい。見るのも嫌になるなら、それでもいい」
 と思うだろう。
 その時は別のおいしいものを探せないいと感じることだろう。
 だが、この感覚は、どこかで似たようなことを感じたような気がした。しかも、実に似た同じようなシチュエーションの場合にである。
 それが何かということを考えると、それは、
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次