小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

架空小説の一期一会

INDEX|15ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 が主流になってきたことで、民放の野球中継を見る人はほとんどいなくなってしまったのだ。
 それが、ゴールデンタイムという、一番視聴率が稼げるところで穴が開いてしまったことで、その穴を埋めているのが、売れているのか売れていないのかよく分からない芸人によるバラエティ番組だった。
 そんなことをやっているくらいなので、若者のテレビ離れは顕著であり、
「家にテレビはない」
 という人が結構いて、
「今さら誰が民放なんか見るか」
 という次第である、
 当たり前のことであるが、某NHKと呼ばれる放送局も例外ではない。ここに関しては、さらに以前からテレビ離れが顕著になっていて、今では、そこを攻撃する政党があるくらいである。
 さらに最近は、テレビ離れがひどく、
「配信藩組で見ればいい」
 ということで、
「家にテレビすらない」
 という人も多いようだ。
 パソコンやスマホで見ればいいということで、昔からテレビを見ている人は、大画面で見るが、テレビのない人はスマホの画面で見るのだから、同じものを見ていても、違った感覚になるのではないかと思うが、どうなのだろう?
 そういう意味で、最近のテレビ番組の傾向がよく分からない。
 朝、昼の番組の中心は、ワイドショーである、
 朝のワイドショーは昔からのことだが、昼というと、以前は、昼休みなど、バラエティ関係の場組があったものだが、最近はそれがなくなった。そして、最近の主流は、なぜか、元、あるいは現役の芸人がMCを務め、それをアナウンサーが補佐する。そして、コメンテイターも芸人で、しかも、売れなくなった人たちを使うという番組が多かったりする。
「一体、放送局は何がしたいんだ?」
 と思う。
 以前であれば、午後一時からは、
「奥様劇場」
 という形でも、奥様向けのドラマがずっと続いていたが、今ではワイドショー枠になっている。
 確かに、昭和の頃に比べて、共稼ぎが増えたので、奥さんが午後の一時に果たしてテレビを見ているかというのは、疑問であり、視聴率を稼げなくなってきているのも分かる気がするが。だからと言って。ワイドショーが果たして視聴率を稼げているのかというと、疑問である、
 下手をすると、
「テレビをつけておいて、他のことをしながらの状態で、画面から、番組が流れている状態というだけなのかも知れない。
 さらに、奥さんの方でも、
「奥様劇場」
 などの番組で、不倫であったり、ドロドロとした恋愛であったりする内容が思た過ぎると思っているのかも知れない。
 ひょっとすると、主婦の中には、本当に不倫をしているので、その不倫を思うと、番組を見ていられないと思っている人も多いのかも知れない。
 その時間、主婦が仕事をしていて、テレビを見ることがなくなったおか、それとも、家にいるが、そんなに重たい番組から遠ざかってしまったのかは定かではないが、奥さんが昼下がりに、奥様劇場を見るという感覚ではなくなったのかも知れない。
 ただ、これは作者の勝手な想像であるが、
「韓流ドラマの影響があるのではないだろうか?」
 ということである。
 昭和の頃の、
「奥様劇場」
 と比べて、韓流ドラマにおいては、明らかな違いとしては、日本のドラマに比べて、主人公の年齢が下がり、いわゆる、
「イケメン」
 を使っての、重たい番組ではあるが、まだ若い人たち、二十代前半を中心とした人たちの恋愛ドラマになっているので、ドロドロはしていても、まだ、先が見えるような内容に、奥様連中は、夢中になっていた。
 それがちょうど、今から、十数年くらい前のことだった。奥様劇場がなくなってきたおは、その頃からだったのではないだろうか?
 これはあくまでも作者の考えであって、ドラマが打ち切られた公表されている理由としては、やはり、
「主婦層のドラマ離れ:
 という漠然とした答えであったが、基本的になくなったのが、十年とちょっと前くらいということは、
「冬のソナタ」
 などのドラマで、
「ヨン様」
 などと呼ばれていた俳優が活躍していた時代とかぶっているからである。
 話が脱線したが、テレビが、完全に迷走を始めたことで、有料放送としては、昔のドラマや映画の再放送を流したりする方が、それでも、民放を見ているよりもお金がかかっても、まだいいということであろう。
 人間、昔を懐かしがってばかりいるのは、あまりいい傾向ではないといえるだろうが、それ以上に、テレビ界の迷走は致命的なのかも知れない。
 スポーツ番組は完全に有料放送に取られた。
「自分の贔屓のチームの試合を試合終了まで見れる」
 という触れ込みがそれだけ視聴者を引き付けたことか。
 民放で野球中継があろうがなかろうが、まったく関係はない。最初から民放など見ないのだからである。
 昭和の頃であれば、野球が延長になって、その後の番組、主にドラマなどが、延長にあると、本来なら十一時に終了するものが、十一時半になってしまう。
 この頃の九時からのドラマというと、二時間番組の、サスペンス劇場が毎日と言っていいほど放送されていて、
「二時間ドラマ」
 と言われていた。
 そんな中で、
「サスペンスの帝王だったり、女王」
 などと言われる俳優も出てくるくらいで、一時期、パチンコ台になったりしたのも笑えたものだ、
 それくらい、パターン化されていた。
 まるで、ドラマの水戸黄門でも見ているかのようで、事件解決シーンは、必ず、どこかの、海の断崖や、砂浜だったりする。ひょっとすると、同じ俳優を使っている場合は、違うドラマを、同じ場所でまとめて買い越シーンだけを一気に撮ってしまい、
「経費の削減を図る」
 などという姑息な手段だったのではないかと勘繰ってしまうが、冷静に考えても、信憑性がありそうに思うので、この考えもまんざらではなかったのかも知れない。
 ドラマの監督はそれぞれ違っていても、解決シーンだけは、解決シーン専門の監督がいたとすれば、それも考えられないことではない。もし、その通りだとすれば、実に滑稽な気がする。
 ちなみに、ドラマの原作が小説やマンガであり、それを脚本家がドラマ化するために、脚本を書く場合と、ドラマオリジナルで、脚本がそのまま原作となる場合があるが、どちらが、難しいといえるだろうか?
「原作があるのだから、それを脚本に書き換えるだけなので、原作がある方が楽なのではないだろうか?」
 と考える人が多いだろう。
 しかし、実際にはそうではない。
 というのは、脚本と小説の執筆とではまったく違うものだということだ。
「小説というのは、読む人を中心に、作家が読者に直接歩み寄る形で書き上げることになる。だから、場面の描写であったり、登場人物お心理なども、しっかり書かないといけない」
 ということであるが、脚本というのはそうではない。
「脚本というのは、書いた内容を俳優が演じ、監督がそれを指揮するという形になるので、脚本の段階で、あまりにも具体的に書きすぎると、演じる俳優や、指揮する監督が身動きが取れなくなるので、セリフ以外の描写や登場人物の心理状況などは、最低限にとどめるようにする」
 というのが、脚本である。
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次