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架空小説の一期一会

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 というような使い方をすると思うが、言葉は知っていても、それがどういうところからの話なのかというのを知っている人は意外と少ないのではないだろうか。
 それこそ、浦島太郎の話や、ソドムの村の話、ノアの箱舟や、バベルの塔の話などほど、知名度が高いわけではない。
 作者も、数年前まで知らなかったのだから、興味のない人が知る由もないだろう。
 ちなみに、よく言われる、
「パンドラの匣」
 という言葉で検索すると、
「太宰治の小説」
 という形で返ってくる。
 実際の本来の意味での、
「パンドラの匣」
 を神作しようと思えば、
「パンドーラ―」
 で検索することをお勧めします。
 このパンドーラ―というのは、女性の名前である。
 出てくるのは、ギリシャ神話で、
「人類最初の女性」
 ということである。
 つまり、それまで人間には男性しかいなかった。ここが、アダムとイブから人類が始まる聖書とは違うところで、古事記のイザナギ、イザナミとも違っていることが特徴的である。
 ここから先は、表しにくいということもあり、日本で一般的に言われている、
「パンドラ」
 と表記することにする。
 この、パンドラと言う名前の由来は、
「すべての贈り物」
 という意味であり、この意味が物語上、重要な意味があるので、覚えておくといい。
 問題は、そもそも、人間には男性しかいなかったということと、その頃は、人間界には、火というものがなかった時代だということである。
 火がないことで人間界は、争いがあったり、大りんポスの神々が許せるような状態ではなかった。
 しかし、そんな人間界に住む。人間というものを好きになったプロメテウスは、人間のために火を与えようと考えたが、
「人間には決して火を与えてはいけない」
 というゼウスの掟があったが、あまりにも気の毒な人間に対して、天界から火を盗んで人間に与えてしまった。
 怒ったゼウスは、プロメテウスに対し、半永久的な苦痛を毎日同じように与えるようにした。毎日、ある一定の時間、崖に磔のような形にして、ハゲタカに、その肉を食らわせたのだ。死ぬほどの苦痛を与えられて、その日が終わっても、翌日になると、傷口は癒えていて、また前の人同じことが繰り返させる。身体が元通りになるのだから、この拷問は、半永久的に続くわけである。
 さらに、ゼウスは火を与えられたことで、さらに争いがひどくなる人間に対しても、怒りをあらわにした。ゼウスとすれば、
「そんな当たり前のことを分からなかったプロメテウスに対しての怒りもある」
 ということであった。
 そこで、ゼウスは、女というものを作り、(女神はいるので、似せて作った。元々男だってそういう形で作ったのだ)、それに神々が、いろいろな贈り物をして、パンドラを、天界からの悪魔の刺客として送り込むことに」たのだった。
 その贈り物というのは、
「アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた」
 というものである。
 そして、最後に、彼女に対して、
「決して開けてはいけない」
 といい含めた箱を渡すのだが、これこそが、いわゆる、
「見るなのタブー」
 とされるものである。
 そして、神はパンドラにこれだけの贈り物をして、いよいよ人間界に、女としてのパンドラを送り込むことになった。
 そして、送り込む先は、裏切者として刑を受けているプロメテウスの弟である。エピメテウスの元だったのだ。
 プロメテウスは、弟に、
「ゼウスからの贈り物を受け取ってはいけない」
 と言われていたが、彼女の美しさに魅了され、そのまま結婚してしまうことになる。
 その際、人間界に来たパンドラは、結局その授かった箱を開けてしまうことになる。
 その箱の中には、あらゆる幸いが飛び出してきた。疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などの幸いがそうである。
 そして、最後に、エルピスというもののみが、縁の下に残って、出ていかなかったという。
 それが、いわゆる、
「パンドラの匣」
 というものの正体である。
 日本の神話や、聖書にあるような、
「見るなのタブー」
 が、ギリシャ神話にも存在するというわけである。
 ただ、最後に箱の中に残ったエルピスというものの正体が何であるかということには、諸説ある。
 ただ、古典ギリシャ語のエルピスというのは、
「予兆や、希望、機体」
 などという訳されるようだ。
 そういう意味で、この世の様々な災厄が表に出たが、最後に希望が残ったという意味で、いいことのように解釈されているが、中には悪いことのように解釈される場合もある、
 エルピスが、予兆という解釈であると考えた時、悪い予感というのも、一種の予兆であり、知らなくておいいようなことを知らされ、
「いずれ、いつかは災いが襲ってくるが、それがいつなのか分からない」
 という不安を持って毎日を生きなければいけないということ自体が、すでに不幸である」
 という考えだ。
 つまりは、
「知らぬが仏」
 という言葉のとおり、何も知らなければ、そうなった時、一瞬にして消え去るだけで、苦痛も苦労も何もないということだ。
 しかし、将来においてロクなことが起こるということが確定していて、それを回避できないということであれば、これほどの災難はないだろう。そうなった時、
「そんなことなら、何も知らない方がよかった」
 と考えるであろう。
 災いを前兆として受け入れることができるのは、あくまでも、回避することができ、それに邁進することが、自分を高めることができるということだという、思い切りポジティブな考えでなければうまくはいかないだろう。
 それを思うと、箱の中に残ったエルピスというもの、そして、
「予兆」
 というものが、一番の災いだったのではないかと思うのだ。
 最初に飛び出した災厄だけが災いではなく、その後に、さらに悲惨なことが残っているのだとすれば、ゼウスを中心とするオリンポスの神々が、
「人間臭い」
 などという生易しいものだということでいいのだろうか?
 プロメテウスに対して行ったバツにしても、これ以上ないというほどの刑である。よほど一思いに、殺してしまってあげた方がいいといえるのではないだろうか。
 これがギリシャ神話における。
「パンドラの匣」
 の伝説であるが、
 前述のような、
「浦島太郎」
 や、それ以外では、
「鶴の恩返し」
 などに見られる、
「見るなのタブー」
 されている話は、聖書の中にもある。
「ソドムとゴモラ」
 というのが、その話であり、旧約聖書の中では、甚だしい倫理の乱れがあったとされる、ソドムの村のひどさは、神々も黙って見ているわけにはいかなくなり、数人を神が助けることになるのだが、助けた人たちを導いて、なるべく早く村から離れることになった。
 その人たちというのは、ロトと呼ばれる人とその家族であった。
 その際、神様から、
「何があっても、決して後ろを振り向いてはいけない」
 と言われていたにも関わらず、爆音が気になってしまったロトの妻が、ロトの、
「振り向いてはいけない」
作品名:架空小説の一期一会 作家名:森本晃次