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奴隷世界の神々

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 そうなると、運営のためには、信者を養っていくために、信者を洗脳する必要がある。
 俗世間で働いてお金を稼いできて、それを団体運営に役立たせることであったり、自給自足のために、まるで農民や、工芸のようなことをしないといけない場合もあるだろう。
「いくら入信したからと言って、霞を食べて生きているわけではない」
 ということなのだ。
 つまりは、他の世界のように、身分制度というか、階級制度のようなものが存在する。
 支配階級の幹部がいて、一般の人は、
「支配される人たち」
 になるのだ。
 彼らには、洗脳を施すことになるのだろうが、そこには、
「奴隷のような立場であっても、それを辛いことだとは思わない」
 というところまで考えさせられることだろう。
 彼らは、奴隷になったとしても、それを受け入れるためには、
「奴隷の神様」
 の存在が必要なのだ。
 俗世間では、古代から続く奴隷制度を当たり前のこととして、行なわれてきた。
 しかし、近世になってやっと、
「奴隷解放」
 が叫ばれるようになり、そこで、
「民主主義」
 の考え方が生まれてきて。
「階級制によるピラミッド世界が崩壊してくる」
 ということになるのだ。
 それが絶対王政であったり、封建制度であったりしたのだ。
 だが、民主主義になり、自由競争によってもたらされた世界は、
「勝者もいれば、敗者もいる」
 というそれまでにもあった理屈で、自由競争によって、それがさらに鮮明になってくるのだった。
 それが経済的なことが絡んでくると、
「貧富の差が激しい」
 ということになり、それが、
「民主主義、資本主義の限界だ」
 と言われるようになった。
 そこで出てきた。
「社会主義、共産主義」
 という考えは、絶対王政や、封建主義のような、
「国家が絶対的に強い」
 という過去の時代に戻ろうとすることであった。
 過去の時代に戻るということが、どれほどの混乱を生むかということを、支配階級は分かっていなかったの、百年もその体制が保たれたわけではない。
 今の世界では、数か国しか残っていない社会主義国であるが、まだ根強い国もある。
「昔の冷戦は、形を変えて、今も存在している」
 と言えるのではないだろうか。
 ただ、この社会では、
「奴隷の神」
 が存在した。
 その奴隷の神というのは、奴隷制度を肯定したうえで、
「奴隷というものが、いかに奴隷として、幸せに生きられるか?」
 ということを基準にした考え方で、一種の宗教のようなものである。
 奴隷というと、上流階級のために、尽くして、働かなければいけない。そして、
「奴隷というものには、人権というものはない」
 というものであった。
 だから、奴隷に対しては、支配階級には、
「生殺与奪の権利」
 が与えられていて、何かあれば、いつでも処罰の名目のもとに、殺されても仕方のないものであった。
 さらに、スポーツの一環としての格闘技も、
「どちらかが倒れるまで」
 であり、それによって命を落とす奴隷も少なくはなかった。
「奴隷の一人や二人、死んだところで、痛くも痒くもない」
 という人がいたが、実際には、
「働き手が減るのは困る」
 という、単純に、
「自分たちのため」
 ということで、奴隷をむやみに殺すことを諫める人もいた。
 彼らは奴隷に対しての善意から言っているわけではない。労働力の一つとして、道具がなくなるのを諫めているだけだ。
 日本においても、
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
 と言った福沢諭吉が、聖人君子だったわけでもない。
 日清戦争の時には、戦争賛成派だったわけで、人殺しの戦争を否定していたわけではない。
 ある戦争が起こった時に、反戦を唱えたという人も、別に聖人君子でもない。
 例えば、日露戦争の時、ロシアとの戦争に反対した伊藤博文は、反戦論を唱えたわけではなく、
「今、ロシアと戦争をしても、勝ち目はない」
 という、時期尚早を唱えただけだ。
「今、やらないと、ロシアは国力を強化して、日本が追い付けないところまで行ってしまう。だから、やるなら今だ」
 ということで、戦争もやむなしということになり、日露戦争が開戦したわけであった。
 そういう意味でリンカーンがどうだったのかまでは分からないが、奴隷解放を唱えている人も、本当は、奴隷のためというわけではなく、自分のための政策の一つだったのかも知れない。
 だから、奴隷解放を唱えている人のすべてが、
「奴隷のため」
 と考えるのは、あまりにも浅はかな考えではないかと思うのだ。
 下手をすると、奴隷解放を唱えておきながら、体制が変わってくると、奴隷制度擁護派に変わるかも知れない。それはあくまでも、言っていることが、自分のためだからである。
 奴隷というのは、今では存在しない。身分制度があるところはあるが、基本的な人権は守られているといってもいいだろう。
 ただ、この世界は奴隷というものを容認している。ただ、奴隷と言っても、人権は存在し、奴隷に対しての、
「生殺与奪の権利」
 などというものは存在しないのだ。
 奴隷というのはあくまでも、人足としての意味合いにしかすぎず、あくまでも人権は持っているが、奴隷が奴隷以外になることは許されない。奴隷が奴隷と言われるゆえんは、
「奴隷に生まれたならば、死ぬまで奴隷だ」
 ということであった。
 奴隷を逃れる自由はないが、それ以外では、ちゃんとした権利は存在する。つまり、働いたら働いただけの給料はもらえるし、命の保証ももちろんある。ただ、生まれながらの奴隷ということで、奴隷は奴隷以外との結婚は許されないし、契りを結ぶと、
「男女ともに死刑だ」
 ということであった。
 それだけ、一般市民の血に、奴隷の血が混じることは許されないのだ。
 もちろん、身分的な絶対的な差別に不満を抱いている奴隷もいただろうが、生活や命の保証は受けていることで、そこまでの不満はなかった。
 そこで、奴隷には奴隷にだけの宗教が存在した。さすがに国家としても、その宗教の布教を否定することはできなかったが、逆に、奴隷が、一般人が信仰するような宗教に入信することは許されなかった。
 だから、この国には、二つの憲法が存在する。一般市民用と、奴隷用の憲法だ。同じ国にあって、同じ土地に住み、奴隷として使われているのに、まったく世界は違っている。そんな国が存在したのだ。
 憲法が違っているのだから、他の法律。民法であったり、刑法などもまったく違う。そんな国の存在は、最初は認められていなかった。
 元々、この国は宗教団体から始まっていた。
 二つの宗教が一緒になって、一つの国家を形成したのだが、元々のその二つの国には、当然奴隷制度は存在しなかった。
 普通の宗教団体であり、ただ、考え方はかなりの隔たりがあった。
 その隔たりのある国が一緒になったのは、国土上の問題であった。
 それぞれが隣国同士であったが、それぞれの反対側に接している国は、世界の体制を決めるような大国であり、お互いにいがみ合っていた。
 そのため、いつ、小国である自分たちの国が脅かされないとも限らない。そこで、最初は軍事同盟を結ぶにすぎなかったのだが、そのうちに、
作品名:奴隷世界の神々 作家名:森本晃次