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奴隷世界の神々

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 という気概が彼らにはあり、本来なら、
「人を殺めてはいけない」
 ということが戒律であるはずの宗教で、
「自衛のためなら仕方がない」
 という、ことを洗脳されているのか、それとも、感覚がマヒしているのか、戦争では、死に物狂いで戦っていたのだろう。
 そんな宗教において、そこまで勇敢に戦えるというのは、彼らが信仰している神の中に、
「戦いの神」
 がいるからではないだろうか。
「お前たちには、戦いの神がついておられる。だから、戦って、自分たちが正しいということを証明してくるんだ」
 とばかりに、洗脳していたに違いない。
 さらに、もう一ついえば、神の中で戦いだけではなく、
「彼らの守り神」
 というべき神が創造されているような気がする。
 それは、
「奴隷の神」
 ではないかと思うのだ。
 これは、戦争の時に戦うだけではなく、奴隷として扱われることを、自らに正当化することで、宗教に忠誠を誓うというような神である。
 普通の、
「人間というのは、生まれながらに平等なのだ」
 というのが、宗教では当たり前のことのように言われているが、実際には本当にそうなのだろうか?
 そもそも、生まれながらに平等で、何ら問題なく生きていけるのであれば、宗教などというものに誰も頼らずに生きていけるはずだ。
 だからこそ、宗教に頼り、
「宗教内では、皆平等」
 という感覚があることで、洗脳されながら生きているのだろう。
「人間が生まれながらに平等だ」
 などという考えは、そもそもに無理がある。
「人間は生まれてくることを選べないのだ。生まれてくるにしても、どの親の元に生まれてくるか。いつの時代に生まれてくるか」
 ということも分からない。
 下手をすれば、命が宿った瞬間に、
「子供を育てられない」
 あるいは、
「親がまだ若くて、生活能力がない」
 つまりは、中学生だったりすることで、中絶などをして、この世に生れ落ちる前に処分されることもあった。
 時代によっては、親が処刑されたことで、子供も一種に処刑の意味で、生れ落ちてすぐに殺されることもあった。
 平清盛が、源頼朝を助けたことが、一生の不覚となったことが、その後の日本の歴史上、敗者の子供の運命は決まったも同然になったからだ。
 それ以外においても、生まれてきてからも、親が貧乏だったり、身分制度で下級身分の親に生まれてくると、その子もその時点で運命は決まっている。
 江戸時代などは、特に身分制度がハッキリしていて、
「生まれた瞬間に、運命は決まっている」
 と言ってもよかっただろう。
 生れ落ちる時に、子供は親を選べない。親も子供を選べない。ここに、果たして、
「何が生まれながらにして平等だ」
 などと言えるのだろうか?
 そんなことを考えていると、それだけで、
「宗教というものが、胡散臭いものだ」
 と言えるだろう。
 そういう意味で、宗教というのは、洗脳が必要なのだ。
 入信するにしても、洗脳によって、それまでの考えを変えさせないとできないことだろう。
「私には、この世の理不尽を理解することはできない」
 と思いながら、搾取されたり、理不尽な生活を余儀なくされることを、半ばあきらめの境地で生きなければならない。
 そんな人間に、
「人は生まれながらに平等だ」
 と口でいくら言っても、信じないだろう。
 まずは、相手の感覚をマヒさせることから始めるのではないだろうか?
 感覚がマヒしてしまうと、ゆっくりでも、宗教を信じるという気持ちの中の余裕が出てくる。
 そういう意味で、宗教の基本というのは、
「心を無にするlpとだ」
 と言えるのではないだろうか?
 無にした心境であれば、いくらでも、受け入れることができる。それまで理不尽だと思ってきたことも、自分の中にある常識というものが、世の中の流れとかけ離れているから感じることで、そんな理不尽な気持ちがあるうえでは、なかなか宗教を理解させるのも難しいだろう。
 ただ、理不尽な気持ち以外にも存在していた、人間としての悔しさや、自分の中の尊厳のようなものすべてをなくさせる必要はない。
 いや、なくさせようにもなくなるものではないのだろう。
 本能に近いものだろうからである。
 そもそも宗教はそんな感覚をなくさせようとは思わない。本能的なものがあるから、人間は、無駄な考えがなくなった時、
「自分は、救われるんだ」
 という気持ちになるのだろう。
 宗教はそこに付け込んで、人間を洗脳しているのではないだろうか。
 だが、この洗脳が、本当に悪いことなのかどうか分からない。
 人間の理不尽な部分は取り除き、残っているのは、本能的な感情だけであるとすれば、洗脳されることは、本人にとって苦痛ではない。むしろ、
「救われる」
 という感覚なのだ。
 元々、人間というのは、群れを成して生きているのであり、
「人は一人では生きられない。だから、仲間や家族を大切にする」
 と言われているが、果たしてそうなのだろうか?
「人間は生まれてくる時は一人、死ぬ時も一人」
 というのが当たり前なのではないのだるか?
 人が洗脳されて、宗教団体に入ってしまうと、
「うちの、息子を返せ」
 などと、まるで宗教団体に、子供を取られたといって、そんな人が増えると社会問題になり、
「また、宗教団体が問題を起こしている」
 と、世間はそのニュースを見て。
「宗教団体は悪い組織なんだ」
 ということで、言われるだろう。
 だが、果たしてそうなのだろうか?
「人間が人間らしく生きるのが宗教だ」
 というのであれば、友人が何をいおうとも関係ないではないか。
 それが親であっても同じこと。むしろ、子供が、
「宗教に入信することで、本来の自分を取り戻したい」
 と思っているとすれば、無理やりにでも連れ戻していいものなのだろうか}
 元々、宗教に入信しなければならないように、本人をそこまで追いつめたのは、そもそも、社会であり、家族ではなかったか。
 それを棚に上げて、一方的に宗教を悪くいうのは、いかがなものかと言えるのではないだろうか。
 もちろん、宗教の肩を全面的に持つわけではないが、人間にも理不尽なところがあるということを、考えないのは、片手落ちだというものだ。
 だから、宗教に入信した本人は、そこで初めて、
「他人ごととして」
 自分を見つめ直すことができるのだろう。

                とある国の事情

 それが悟りというものなのかも知れないが、その時点で、完全にその人は宗教に足をふい入れていて、洗脳された状態になっている。
 しかし、この洗脳は、自分から行ったもので、誰かが行ったわけではない。ここまでは、宗教には何の落ち度もないだろう。
 しかし、宗教団体の幹部は、その役割として、
「団体を運営していかなかればならない」
 という、現実的な問題がある。
 これは、俗世の会社と何ら変わりなく、ある意味
「俗世に一番近いところにいる」
 と言えるのではないだろうか。
 運営するためにはお金がいる。
 これは、一般社会と同じお金であり、そのお金の価値は、宗教団体だからと言って、変わるわけではないのだ。
作品名:奴隷世界の神々 作家名:森本晃次