小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

奴隷世界の神々

INDEX|2ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 そんな宗教を考えていると、どうしても、神の存在というものがどういうものなのかということを考えさせられるような気がした。
 そこで、一般的にいるはずはないだろうが、
「こういう神がいたとすれば?」
 ということで、神の創造をしてみたいと思う。
 そもそも、神が人間を創造したというのだから、人間が神を創造してもいいではないか。もっともこの理屈は、
「神が本当に存在する」
 ということを前提に言っているのであって、存在しない神が人間を創造できるはずもなく、
「神を創造したのが人間でしかない」
 ということになるのだ。
 そう考えると、
「神というのは、矛盾に包まれた存在なのではないか?」
 とは考えられないだろうか。
 まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という禅問答のようではないか。
 もっとも、それは、
「生き物は、必ず創造主がいる」
 という考え方に基づいているもので、その理論は、
「人間は、親から生まれる」
 という人間にとって当たり前の発想からきているに違いないのだ。
 だから、創造主がなければ、
「人間はどうやって生まれたのか?」
「神は誰が創造したのか?」
 という発想に至ることもない。
 だからこそ、話は少し飛躍するが、
「タイムパラドックス」
 という発想が出てくるのだ。
 タイムパラドックスというのは、
「タイムマシンやワームホールを使って、人間が過去に行って、過去を変えてしまうと、未来、つまり今までいた時代も変わってしまう」
 という発想である。
 この発想を裏付けることとして、
「親殺し」
 という発想があるのだ。
 過去に行って、自分が生まれる前の親を殺したとすれば、自分は生まれない。殺すまでしなくても、両親が出会うタイミングを少しでもずらせば、自分が生まれてくることはない。
 生まれてこなければ、存在しない子供が過去に戻って、歴史を狂わすわけはない。だとすれば、歴史は変わることなく動くことになる……。
 というのが、タイムパラドックスなのだ。
 つまり、タイムパラドックスの発想というのは、
「親と子が存在しないと、成立しない概念なのだ」
 ということである。
 逆にいうと、
「親と子が存在するから、タイムパラドックスということが起きるのだ」
 ともいえるだろう。
 だとすると、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という発想も、タイムパラドックスの矛盾という発想と同じものだといえるのではないだろうか。
「世の中にある無数の矛盾というのは、こうやって突き詰めていくと、案外狭い範囲に集約されるものなのかも知れない」
 と言えるであろう。
 宗教と神の関係も、そういう意味では、矛盾というのがキーワードとなって、実に狭い範囲で、ニアミスを起こしているのかも知れない。
「世界は無限に広い」
 と言われるが、実は交わることのないところで、グルグルと回っているだけなのかも知れない。
 神を作ったのは人間であるとすれば、なぜ神にもいろいろな神がいるのだろう。
 純粋に、人間を助け、幸せに導いてくれる立ち位置の神もいれば、オリンポスの神々のように、人間臭い神もいる。
 だが、人間のためになる神を創造するというのは、人間のエゴが作り上げたものだといってもいいだろう。
「フランケンシュタイン症候群」
 という言葉にもあるように、
「人間よりも優秀な、理想の人間を作ろうとしたのに、間違って、人間を滅亡に導くようなものを作ってしまうという小説は、今の人間のおごりや高ぶりを、象徴している」
 のではないだろうか?
 人間というのは、それほど、傲慢なものであるということで、小説のネタになるのだ。
 神を創造したギリシャ神話だってそうではないか。あくまでも、戯曲であったり、小説のようなものであったりするわけで、その中に警鐘を鳴らすものがあってもいいわけだ。
 それにしても、ひどすぎるところはあるが、そこは逆に、
「天変地異などの自然現象も、人間が不利になるような状況に陥れば、それを神の仕業として考える」
 という発想なのかも知れない。
 突如として、大帝国が数日の嵐で全滅し、海に沈んでしまったなどということが本当にあったのかどうか分からないが、それに近いような大打撃を受けたところがあったとすれば、小説の中では全滅したことにして、話として、
「例えば、その国の王妃が、神に好意を抱かれて、妊娠してしまい、子供を宿したとして、嫉妬に狂った国王が、その子供を、悪魔の子と称し、海に流してしまったのを見た神が、自分の子供を海に流したとして、国王にバツを与えようと、海獣を使って、その帝国に嵐を巻き起こし、滅亡させてしまった」
 というような話があったりするのだ。
 つまり、
「超自然的な現象は、神の仕業だ」
 ということにしてしまえば、
「神を崇めることによって。国が亡ぶことはない」
 という言い伝えを残し。無意味な自然に対しての不安を、国民が抱かなくてもいいという考えもあったのかも知れない。
 あくまでも、個人の勝手な理解なので、神話を書いた人がどういう発想で書いたのかは分からない。
 ただ、もしそうであったとすれば、神はうまく人間に使われたことになる。
 ただ、神が利用されるということは、どの時代にもあったことだ。
 薬もまともになかった時代には、大病を患うと、死ぬのを待つか、それとも祈祷によって治癒を願うかということになるのだが。その時に神が使われたりする。
 昔の人は自分たちの生き死にが掛かっているのだ。
 特に、農民などは、天候によって、その都市の豊作、不作が決まってくる。
 干ばつや長雨などでは作物が取れずに、大飢饉に見舞われたりするが、そんな時は雨ごいなどの祈祷をしたりするものだ。
 今であれば、笑って済ませることであるが、当時の人はそうもいかなかった。
 戦争でもないのに、道端に行き倒れた人が、溢れているなどということを、誰が想像できるだろうか?
 だが、天候や自然現象を、神が助けてくれるわけはなく。祈りが通じないことがほとんどであろう。
 そんな時に、もし神というものを創造していなければ、どうなるだろう?
 民衆は、何を信じていいのか分からずに、無秩序な無政府状態になる。それでも、神の存在を信じさせているから、大きな混乱にならない時代もあっただろう。
 ただ、さすがに江戸時代などのひどい飢饉の時は、米騒動や打ちこわしなどで、民衆が大いに血気盛んだった時代もあったが、それも、信仰心があるから、まだ秩序を持った一機などがあったのだろう。
 とにかく、世の中というものが、神を信じるという信仰心で、今まで歴史が築かれてきたことは間違いない。
 ただ、世界では、宗教戦争というのもたくさんあった。日本でも古代の、
「乙巳の変」
 などは、宗教がらみだった事件である。
 やはり人間の生活に宗教が絡んでくると、戦が起きないということはないのであろう。
 宗教戦争には、その宗派のプライドと、そして、神に対しての尊敬、さらには、自分たちの死後に極楽に行けるかどうかという考えが絡んでくるので、兵士も必死なのではないだろうか。
 普段からの修行、そして、教祖の洗脳によって、
「死を恐れない」
作品名:奴隷世界の神々 作家名:森本晃次