小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

奴隷世界の神々

INDEX|18ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 としても、あくまでも、失敗はしたが、最終的な理想を掴んだわけではない。
 過去の時代の失敗を踏まえて、いかに悪かったところを解消していくかということが重要なのだ。
 そういう意味で、勧善懲悪の神が一役買うことになった。
 考えてみれば、
「勧善懲悪の神が出てくる物語であったり、その時代背景は、主に時代劇と言えるではないか」
 つまりは、
「封建制度の理想とする世界を見つけ出すことができれば、それは、究極の政治体制だといえるのではないだろうか?」
 というものである。
 歴史を勉強するうえで、一番大切なことは、
「何が正しく、何が間違っていたかということを、史実から検証することではないだろうか」
 ということである。
 この地区の信じられている神は、他の神と一線を画しているところがある。
 と言っても、他の国や地域の神にも。そんなところのある神もあるが、あくまで少数派と言ってもいい存在で、主流ではない。
 彼らの信じる神は、そういう意味では、
「異端神」
 と言ってもいいかも知れない。
 そんな言葉は存在しないとは思うが、彼らにとって、その思いは、
「他の連中とは違う」
 と思わせるに十分なものであった。
 彼らには、自分たちが奴隷だということで、他の連中にはないプライドがあると思っている。
 プライドと言っても他の地域の連中の感じている、
「普通」
 と呼ばれるプライドではない。
 そのプライドは、まわりに向けたプライドではなく、あくまでも、自分を律するために必要だという意味でのプライドだった。
 彼らが、元々、
「他の地区の連中とは違う」
 と思っているから、神を信じているのか、それとも、
「神を信じる」
 という意識があるから、まわりの地区とは違うというプライドを持っているのかの順序は分からない。
 しかし、な順序はプライドという言葉の前では凌駕されたも同然であった。
 他の連中が、
「プライドを持つことで、まわりの人に認められたい」
 という意識を一番に持っているのだとすれば、彼らは、
「プライドを持つことは、自分を律するためだ」
 という意識を一番に持っている。
 そのどちらも、この地域であっても、表の地域であっても、持っていることだろう。しかし、その優先順位というものが違っているだけで、
「ここまで感情が違ってくるものなのか?」
 と思うほどに、大きな差があるということであろう。
 そして、彼らの信じる神は、
「戒めのための神だ」
 という存在が多い。
 そもそも、神を信じるということは、神に助けを乞うという意識ではなく、自分たちを戒めることで、自分たちが強くなるという意識に基づいているのである。
 確かに宗教というものは、弱い者に対して、その情けを掛けることで、救われるということになるのであろうが、そうなると、目の前の苦難に打ち勝つことはできない。
 あくまでも、
「死んだ後に、極楽にいけるためのもの」
 というのが宗教であったのだろう。
 もし、そうではなく、
「目の前の苦痛から逃れるための宗教だ」
 ということであれば、彼らに救われるための教えなどは、まったくの無意味である。
 それよりも、
「自分を律し、戒めることで、強くなる」
 ということであれば、目の前の苦痛を逃れるためになるというものだ。
 つまりは、
「強さが備わっていなければ、いくら神に祈ろうとも、それは他力本願でしかなく。肝心な時に何の役にも立たない」
 ということになるであろう。
 自分を律し、自分を強くしておけば、そこから生まれるものは、真の強さであり、決して今後、神に助けを乞うこともなく、救われるなどという感情がなくとも、
「自分の身は自分で守る」
 という究極の教えを全うすることができるのかも知れない。
 それが、この地域の神というものの存在意義であり、信者の心にしっかりとした形で根付いている。これこそが本当に、
「強い信仰」
 なのではないだろうか。
 信仰心がない国は国家というのは、有事には脆いものである。
 かつての日本もそうだった。あれは、大東亜戦争が集結し、アメリカによる、
「押し付けの民主主義」
 のせいで、
「そもそも、有事というものが存在しない」
 ということにされてしまい、有事の際の国家による行動は制限されることになった。
 それ以前の大日本帝国では、
「戒厳令」
 というものが存在し、
「クーデターや、災害などが起こった際には、国家や軍で、その混乱を収めるための部隊を組織し、国民の権利を制限することができる」
 というものである。
 戒厳令が出されると、戒厳司令部が組織され、彼らが非常事態時の警察であり、政府であり、治安部隊として働くのだ。
 そこで、たとえば、
「夜間外出禁止エイ」
 などというものができ、それを破ると、まるで刑法犯のように、罰金、あるいは懲役に科せられることになる。
 それが有事というものであるが、日本においては、憲法において、
「基本的人権の尊重」
 が謳われていて、さらに、
「戦争放棄、平和主義」
 という項目まであることで、国家が市民の権利を制限することはできないのであった。
 それがm
「日本には有事などない」
 と言われるゆえんで、戦争とは違い、災害というのは程遠い、国家陰謀によるパンデミックが起きてしまったのに、日本政府は、国民に、お願いするしか方法はなかったのだ。
 一応、措置としては、
「緊急事態宣言」
 などという、言葉だけは立派な宣言であるが、実際には、すべてがお願いレベル。
 しかも、国民にお願いしておきながら、政府内部では、
「いうほど大したことはない」
 と思っている輩が多いせいか、彼らには。緊張感がまったくなく。マスゴミにその甘さからの行動の悪さを指摘され、辞職しなければいけなくなったりした事件が多くおこったりした。
 そんな政府に対して、国民がついてくるはずもない。
 しかも、政府はお願いと引き換えになる
「金銭的補償」
 を、中途半端にしかできていない。
「支給されるのも、かなり後になってから、支給される時になってみると、店はすでに潰れていた」
 などというのは、当たり前にあったことだ。
 政府や国民の安全のために行動して、自分だけが潰れるなどという、割に合わないことになってしまい。さぞや不本意であろう。
 それこそ、
「保障は国が十分に行います」
 などという言葉は詭弁であり、そのことに気づいた国民は、もう国家のいうことを聞かなくなった。
 二回目以降の緊急事態宣言下では、誰が国のいうことを聞くというのか。お願いはしても、まったく見返りはない。まるで、はしごをかけて、
「お前だけが頼りなんだ」
 と煽てておいて、はしごを外して、置き去りにしてしまったのと変わらないではないか。
 それが、当時の日本国の政府であり、ソーリの態度だったのだ。
 この地域の奴隷たちは、決してそんな日本のような末路を迎えることはないだろう。
 その教訓は、その地域に根付いていて、国家体制に大いに影響を与えているのだった。
「勧善懲悪の神」
 その存在は、
「生まれるべくして生まれたこの土地の神」
作品名:奴隷世界の神々 作家名:森本晃次