奴隷世界の神々
「どうして、勧善懲悪の神が、全能の神一族の次のナンバーツーなのかということなのか?」
ということの理由であった。
勧善懲悪は、言葉だけを聞けば、
「正義の味方」
という形のものとしての、確固たる絶対的な存在意義があったが、この奴隷の国においては、決して、
「正義の味方」
などではなく、
「制裁の神」
という意味で、大切な神なのだ。
ナンバーツーとしては、自覚がなさそうなのだが、実際の裁きは、結構厳しいものが多い。
彼としては、
「勧善懲悪というのは、妥協があってはならない」
という自覚があるようで、決して正義の味方にこだわってはいないようだ。
勧善懲悪が正義の味方ではないことは、分かっていることであり、テレビドラマなどで勧善懲悪をヒーローとするのは、あくまでも、
「自分にはできない。悪を懲らしめる」
ということが前提なのだ。
何も、正義の味方でなくとも、悪を懲らしめることができるだろうからである。
神々の世界でも、
「どんな神であるか?」
ということは重要だったようで、必ずしも、自分がなりたいという神になっているわけではないという。
世界の他の国ではほとんど、人間の、
「職業の自由」
というものは、認められている。
認められていない国も若干あるが、この国の中の、奴隷民族も、その数少ない一つである。
だから、彼らが信仰している神様にも、
「職業の自由」
ともいうべき、何の神になるかということも、選ぶことはできない。
「人間も、神も、生まれながらに決まっていることなのだ」
というのが、彼らの基本的な考えで、それを悪いことだとは思っていない。
むしろ、最初から突出して一つのことに優れているのだから、何を途中で変える必要があるというのか、変えることによって、
「せっかく生まれ持ってきたはずの才能を生かすことができず、生を受けた意味はない」
と言っているのと同じことである。
だから、それは、神に対しても同じでなのだ。
しかし、この発想は他の地域で信仰されている神や仏とも同じではないか。最初から、神も仏も生まれながらに決まっている。創造物というのは、そういうものではないのだろうか。
「全能の神は別として、奴隷の神、差別の神、性欲の神、さらには、勧善懲悪の神と、生まれながらに決まっていたのだろう」
ということであった。
そもそも、それが信仰というものであり、信仰する相手がコロコロ変わってしまうなど、普通はありえないことではないだろうか・
そんな中で、勧善懲悪の神というのは、漠然とした考え方の一つであった。
勧善懲悪というのは、最初から人間社会にあったものではないだろう。
聖書においても、
「善悪の心」
でさえ、身に着けることになったいきさつが、話として書かれているくらいなのだ。その感情に対して、人間がどのように行動するかということは、さらに後になってからの考え方に違いない。
ただ、人間には本能というものがある。
「一種の何かの心」
というものを持つと、その心に対応するすべを、会得しようとするのが人間の本能だといえるのではないだろうか。
一応、この国にも、宗教とは少し違う意味での、物語が伝わっていた。
日本において、宗教的な含みのある歴史書のような、キリスト教でいえば、聖書のようなものが存在している。
それが、
「古事記」
と言えるのではないだろうか。
そして、人間の神話に近いようなものとしては、
「おとぎ草子」
のような、おとぎ話をまとめた話が伝わっているのだが、この国においても、古事記のような本もあれば、おとぎ草子のような話もある。
日本であれば、それぞれには、あまり共通性がないのは必定で、古事記が神の話であれば、おとぎ草子は、言い伝えをまとめた本だといってもいい、そういう意味ではまったくの別物だ。
しかし、この奴隷の国における、古事記のようなものと、おとぎ草子のようなものとでは、結構な共通点があるようだ。
その中で、神の存在が、古事記のようなものでハッキリと歌われていて、おとぎ草子のようなものでは、漠然と言われている。だが、その中の共通点としての一つに、今回話題にした、
「勧善懲悪の神」
というのが出てくるのだ。
おとぎ草子のようなものでは、人間の中の信仰心として存在する勧善懲悪の神が実際に現れるというような話であった。
それが、勧善懲悪だけではなく、他の神のことも書かれているが、その共通点としては、
「漠然とした表現の神様ばかりである」
ということであった。
勧善懲悪の神は、奴隷という世界の中で、
「その住民が一番心の中に宿しているという感覚を持った神である」
と言われている。
つまり、
「奴隷という世界では、自分たちの運命は決まっていて、変えられないものだ。だから、今さら勧善懲悪などということを、なぜ意識しなければいけないのか?」
という意識を持っていた。
だから、勧善懲悪という言葉は、彼らにとって、
「自分たちの存在t、その覚悟を脅かす存在のようなものだ」
と考えられていた。
そんな言葉なのに、なぜこのように信仰されるようになったのかというと、彼らの中には、
「逆説の心理」
というものが働いている。
彼らは、奴隷という立場でありながら、結構勉強をしている。本来、支配階級の連中から見れば、
「支配される階級の人間が勉強することで、自分たちの運命に疑問をいだいたりして、自分たちにクーデターを仕掛けてきたら大変だ」
という意識から、学問や勉強ができない立場に追い込むように、図るのが普通だったはずだ。
しかし、彼らは奴隷としての覚悟は最初からついていて。奴隷という立場をそんなに悪いことのように思っていないようだ。
そのことを考えると、
「勉強をすることによって、クーデターを起こす可能性は低いかも知れない。逆に勉強ができないということがストレスとなり、せっかく彼らが奴隷として、誇りをもって生きようとしている決心を揺さぶって、生産性が悪くなったり、余計にクーデターというものを考えさせるという無駄なことをしてしまうかも知れない」
というのが、支配者階級の考えであった。
この国が、異様な状態であるにも関わらず、体制として問題なくここまで来ていたのは、支配階級側にも、奴隷側にも、それぞれに、自分たちの存在意義を理解し、相手に対して、決して恨みのようなものを持っていないからだといえるのではないだろうか。
そんな状態になった理由の一つが、この、
「勧善懲悪の神」
の存在なのかも知れない。
善悪というものがどういうものなのかを知るという意味で、勧善懲悪の神の力が必須であり、善悪というものをハッキリと理解できるようになると、そこには、
「封建制度というものの理想の形」
が生まれてくるのかも知れない。
これは、時代が未来という一方向に向かって進んでいることでの、一番の危惧と言ってもいい、
「時代が逆行し、過去の政治体制に戻る」
ということにはならない。
なぜなら、あくまでも求めているものが、
「過去の政治体制であり、失敗に終わったものだ」