奴隷世界の神々
「彼らは、人間としてというよりも、奴隷としてのプライドが強いと思うんだ。それは、自分たちが他とは違うということを考えているからではないのかな? 奴隷には奴隷のプライドがあって、それが奉仕の精神であれば、何も悪いことではない。本人たちが、奴隷として生きると感じているのであれば、それは彼らにとっての正義であるといえるのではないだろうか?」
と、団長は言った。
「難しいですね」
という団員に、
「そうか? そうでもないぞ、人間というのは、どんな立場であっても、自分の正義を持っていて、そこに対しては素直になるものさ。だから、彼らが奴隷として生きる立場に素直になっているのだとすれば、決して奴隷も悪いことではない。ただ、奴隷制度を許してしまうと、世界的な秩序が失われてしまうことで、奴隷制度は悪いことだということになったんだろうな。そう思うと、彼らが奴隷を嫌なものと思わず、素直に考えることは、自分たち奴隷の子孫をたくさん作ることだと考えるのさ。そうじゃなかったら、奴隷なんて自分たちの代で終わらせようと考えるはずではないか? そうしないということは、彼らは自分の運命を受け入れ。それを自分たちの正義だと感じているからなんじゃないかと思うのさ」
と、団長はいうのだった。
団員は、何となく分かった気がするが、それが限界だ。団員にはそれが分かるほどの経験値があるわけではない。そのうちに団長のそばにいることで身についていくものに違いないだろう。
ただ、ここで特質すべきは、
「性欲の神の父親は全能の神であるが、母親は別にいる」
ということであった。
義母の奴隷の神は、そのことを知っていて、敢えて何も言わない。全能の神といえども、奥さんには半分頭が上がらないのが、必定であろう。
勧善懲悪の神
一般世界でいえば、
「不倫」
あるいは、
「姦通」
ということになるのであろうが、これらを許しているところは、法律的には、ほとんどない。
姦通罪というものが、以前はあったが、憲法に対して違反した考えだということで廃止された国がほとんどだった。だが、
「種の保存、子孫繁栄」
「労働力の確保」
などの理由で、子供が必要な世界は、もっと切実な問題なのだ。
いくら不倫の子であっても、差別をしないということは、不倫自体が倫理に反するかどうかとは別で、子供に罪はない。つまり、子供に対して差別をするということは、奴隷の世界ではあってはならないことだった。
しかも、子供は大切なものだという理由で、差別をしてはいけないと、法律に文面も罹れている。それを思うと、生まれた子供は、男の子であっても、女の子であっても貴重なのだ。
それは、さらに次の世代のために、男だけが増えても、女だけが増えても、困るということになるからだ。
それにしても、若干の違いことあれ、
「男と女の比率が、それぞれいい塩梅に生まれている」
というのは、どういうことなのだろう?
そこに理屈は存在しないということなのか、それとも、何かの見えない力が働いているということなのだろうか? それを思うと、
「性欲の神」
というものは、この奴隷の世界だけではなく、他の国にも存在していて、誰もが意識はしているかも知れないが、意識をしているだけで、気にしないように、無意識にしているのかも知れない。
そして、そんな性欲の神というのが、実は、
「不倫の子だった」
というのは、実に皮肉なことであろう。
ただ、
「不倫であろうが何であろうが、子供はこの世界にとって大切なものだ」
という意味で。不倫の子が、性欲の神であるというのは、必然のことなのかも知れない。
そんな全能の神の家族はそんなところであろうか。
他にも選ばれた神々はたくさんいる。その中で、全能の神の次、二番手と言ってもいい神は、
「勧善懲悪の神」
であった。
そもそも、勧善懲悪というのは、
「善を勧め、悪を戒める倫理規範や、因果応報を説く思想」
のことをいうのであろうが、もっと分かりやすくいえば、
「善を助け、悪を懲らしめるという考えは、物語や文学などに見られる世界」
であり、理想の思想と言ってもいいだろう。
しかし、実際には人間はそこまで精神的に強いものではなく、
「朱に交われば赤くなる」
という言葉にあるように、どうしても、人間は善悪というよりも、自己保身の考え方から、強いものに、なびいてしまうという性格がある。
それを戒めとして、
「気持ちくらいは、悪を憎むという気持ちになっていたい」
と思っているのだろう。
だから、勧善懲悪の小説であったり、ドラマなどが受けるのだ。
特に、時代劇などに言えることで、
「悪代官と、悪商人とがつるんで、弱き善人たちを迫害している」
というシチュエーションに、勧善懲悪なヒーローを求めるのだ。
それが、印籠であったり、背中の桜吹雪のようなインパクトのあるもので、修飾されると、よりリアルだというものである。
勧善懲悪という発想は、人間であれば、一度くらいは憧れたことがあるはずだ
その理論は、
「自分にできないことを他人が果たしてくれる」
という、
「達成欲の他力本願」
と言ってもいいかも知れない。
だからこそ、時代劇で、印籠や背中の桜吹雪というインパクトの強いものを象徴のように感じ、勧善懲悪をまるで自分の意志のように感じることで、自分ができないはずのことを、自分でもできるのではないかという勘違いを正当化できるのかも知れない。
ただ、奴隷の世界において、勧善懲悪の世界というのは正しいことなのだろうか?
いくら、この世界が、奴隷制度を受け入れているといっても、完全に認めているわけではない。人によっては、こんな世界を受け入れられないと思っている人もいるだろう。
そういう意味で、何度もクーデターのようなものが起こる気配はあったが、その都度、達成されることはなかったのだ。
その理由として、
「支配階級の方にも神様がいて、その中には神の予言として、まるで祈祷師のように、その伝承を話す人がいる」
という。
その人が、予言として、
「クーデターを企てている連中がいる」
と言ったことで、ほとんどのクーデターは事前に解明し、すべて潰されてきたのだ。
しかし、逆にいえば、支配階級の連中からは、企てた連中を極刑に処すことはできなかった。
憲法で処罰はできないのだ。さすがに無罪放免というわけにはいかなかったが、その裁判は、国連に委ねられた。
執行猶予付きの有罪が定石であったが、それも、彼らの中にある、
「勧善懲悪の神」
がいたからだと、言われている。
もちろん、恩赦ということもあるだろうが、勧善懲悪の神に刑罰を伺い、その結論によって罪が決まるというのは、
「クーデター事件だけにおける、昔からの決定事項」
だったのだ。
それは、元々、相手に裁判権があるものを、こちらに譲渡してくれるという情けに応じて、
「神による裁き」
が、その恩赦に近いものであると考えられているからだった。
そういう意味で、
「勧善懲悪の神」
というものには、絶対的な存在意義があった。