奴隷世界の神々
次元が同じだと思うから、空間が違うと思い、距離感を感じるのであって、次元が最初から違っているのであれば、そばにいても、見ることができないという発想に至るのではないだろうか。
そう考えると。神々の存在を、宇宙の星になぞらえたのも分からなくはない。
ギリシャ神話の神や動物は、ほとんどが、夜空の星や星座となって延々と続いていくものである。
そういう意味で、奴隷たちの神は、すぐそばにいると考えられている。
それは、四次元の世界の創造と似たところがあり、
「そばにいても、誰も気づかない」
という、
「路傍の石」
のような存在も、別に不思議なこととして考えられない状態にあるのだった。
ところで、彼らが創造する神は、都市伝説と言われていることのほとんどをつかさどっているというような言われ方をしている。
それだけ、神話というものには、信憑性を持っていて、
「その信憑性の裏には、神がいる」
ということになっているのだろう。
信憑性の証明のための存在というのは、神としては、許容できるものなのだろうか?
奴隷が個々で感じているのが、神であるという形になっているのは、そのあたりに原因があるのではないだろうか。
ゼウスがいて、ポセイドンがいて、ヘラがいる。さらに、オリンポスの十二神と呼ばれる神々と同格の神に、ハーデスやペルセポネがいる。いろいろな絡みがあるのが、
「ギリシャ神話」
における神々であるが、この国が信仰する神々は、そんなに複雑ではない。
ただ、複雑に感じるのは、
「人々が勝手に創造した個々の神だからだ」
と言えるだろう。
「そういえば、全能の神の奥さんが、さっき、我慢の神だっていったでしょう?」
と、団員に言われて、
「ああ、そうだったな」
と、団長が答えると、
「実は二人には、息子が一人いるんだけど、これも神なんですよ」
というではないか。
「ほう、どんな神なんだい?」
と聞かれた団員が、
「差別の神というものなんです」
というと、
「さっきから、奥さんも子供も、何か微妙な神様なんだね。我慢に差別って、いったい何なんだっていうんだ?」
と、半分呆れたように、団長が言った。
「ふざけているわけではなく、大真面目なんですよ。差別の神というのは、ある意味では重要な神で、彼らが奴隷と言われても、怒ったりしないのは、そのあたりに原因があるようなんです。つまりは、まわりから差別を受けることで、自分たちの間はすべて平等だということのようなんです。まわりの人間はよその人間なので、別に差別があっても、それは当たり前のことだと思うと怒りもしない。でも、自分たちうちわだったら、その中で差別があれば、これ以上の情けなさと寂しさはないということのようなんですよ。それを、全能の神の息子がつかさどるというのも、何か不思議ですよね?」
と団員がいうと、
「何か、母親との間に確執でもあるのかも知れないね」
と、団長は言った。
それを聞いて団員は、なるほどと思ったが、その時にはそれ以上聞かないつもりだったが、
「母親は、父親がたまに浮気をしているのを知っていて、それなのに、自分が嫉妬で夫を責められないのかということを分かっていた。さすがに、全能の神には逆らえないということなんでしょうが、それを息子も陰から見ていて、父親と母親の間に、埋めることのできない壁と距離を感じたということなんです。それで子供が成長していくうちに、それが差別だと分かってくると、自分が何をつかさどるかと考えた時、差別なのではないかと思ったらしいんです」
と団員は言った。
「ということは、ここの神というのは、神として生まれて成長過程で、何をつかさどるかということを、選択することになるのかな? それとも、何かをつかさどるために、神になる選択をするということなのかな?」
と団長に聞かれて。
「彼らは、生まれながらに神になることは決定しているということなんです。そして、成長過程で、どこを目指すのかを決めて、そこから、専門的な知識や技を身に着けていくことになるんですよ」
と団員は言った。
「じゃあ、息子は両親を見ていて、差別というものに。特別な感情を覚えた。だから、差別をつかさどる神になることを決意したということだろうか?」
と聞かれ、
「そうだと思います。ただ、差別の神になるというのは、結構難しいらしいんですよ。というのも、神の間に差別というものはないんだけど、階級は存在している。息子はまだ若く、その理屈が分かっていない。だから、差別というものが、自分たちが作り出したものだということを、知ってはいるが、どのような影響を秩序として与えるのかが分からない。そのために、神をいただいている人間がいるということを知って、人間界に差別を与えるようにした。階級もそうだが、精神的な差別を与える。肉体的な差別は元から感覚としてあったが、精神的なものは曖昧なんです。それを差別の神は、ハッキリさせ、自分たちを信仰している連中に身につけさせようとするんですよ。そうすると、差別を差別だとは思わない連中に、違和感を与えるようになる。敵意をいだくことになって、活気を起こさせ、普段から冷静で、冷静でいれば、苦痛も感じないという考えのもとになっていることから。差別というものは必要悪ではないかと思うようになったんですよ」
と、団員が言った。
「差別なんて、そういう意味では概念でしかないのかも知れないな」
と団長がいうと、黙ってうなずくしかなかった団員は、差別というものを、自分だけで、勝手に膨らませて考えているのだと思うようになったのだ。
差別というものは、
「何をもって差別というか?」
という問題である。
日本という国では、差別というと、人種差別、性別差別、年齢差別などというものがあり、就活における面接などでは、
「聞いてはいけないこと」
や、募集要項には、
「不問」
などと書かれていたりするものがある。
例えば、年齢不問となっているが、企業的には、
「三十歳まで」
と規定していても、差別問題から、
「年齢を表記してはいけない」
などということで、
「年齢不問」
と書かれているが、実際には、
「採用に関しては、一切の質問にはお答えできません」
などと表記してあれば、問い合わせても何も教えてくれない。
相手も教えるはずはない。正直に、
「年齢表記は法律でできないようになっている」
などと答えると、相手が逆切れすることもあるからだ。
そんな状態なので、差別が厳しくなると、就活する方も、面倒くさくてしょうがないということになる。何しろ、年齢不問と書かれてしまえば、自分が応募して合格の可能性が少しでもあるのかどうか分からない。まったく無駄だと分かっていても、面接に行かなければならないということになりかねないのだ。
また、差別ということで、よく言われているのが、男女差別である。
特に、男女教均等法なるものが定められてから、それまでの呼称が、
「男女差別になる」
という理由で、変わってしまったものがたくさんある。
「看護婦が看護師」
「スチュア―デスが、キャビンアテンダント」
「婦警さんが、女性警察官」
などである。