奴隷世界の神々
そういう意味で、若い連中の気持ちがわかるということは、ベテラン連中をいかに扱えばいいのかということのジレンマに陥ってしまうということになるであろう。
彼は、
「我慢の神」
について仕入れてきた情報を話してくれた。
「我慢の神というのは、最初から存在していたわけではないというような話を少し聞きました。元々、奴隷の神様というのは、独身だったそうなんです。でも、奴隷というのも、子孫を残さないといけないということで、急遽、奥さんが必要になったらしいんですよ。そこで、本来ならいなかったはずの奥さんを作るのだから、どんなのがいいかということになった時、望んでもいない嫁を登場させるのだから、当然、いいイメージではない。そして、奥さんというのは、旦那のわがままを我慢するというところは、奴隷の世界にもあるようで、そのために、奥さんは、我慢の神と言われるようになったらしいんです。だから、本来の我慢という意味とは少し違っているのでしょうが、どうせ都合で作る神だということで、全般的な我慢をする神というイメージで作られたんだそうです」
と言った。
「じゃあ、我慢の神というのは、人間が後から強引に作ったものなんだね? でも、ここでいう我慢というのは、奴隷から見た我慢なのだろうか? それとも奴隷に我慢をさせるという意味からきているのだろうか?」
と、団長は言った。
「これは、どちらかというと、一般国の方から出た話のようですね。だから、奴隷たちの間では、最初、反対意見があったそうなのですが、なぜかというと、自分たちが我慢をさせているということを奴隷たちに意識させてしまうと、クーデターを起こされる危険性があるからです。それを危険視した支配階級の政府は、すぐには、押し付けるようなことはしませんでした」
「じゃあ、奴隷たちの方から、受け入れる形だったのかな?」
「ええ、その通りのようですよ。奴隷というものをいかにうまく使うかということが、彼らの奴隷を見る目の一番ですから、クーデターなど、本末転倒もいいところ、ロボット開発における。フランケンシュタイン症候群のようなものですよ」
と、団員は言った。
差別の神
「フランケンシュタイン症候群というのは、人間が作り出したものが氾濫を起こし、人間を支配しようとしたり、人間を殺そうとするものです。一種の本末転倒のお話だといえるでしょうね」
と、いうのだった。
「あれは、ロボット開発への警鐘のようなものだと思っているが、ひょっとすると、神話にも同じようなものが存在するのかも知れないな」
と、団長は言った。
「フランケンシュタイン症候群を神話と結びつけるという考え方は、斬新ですね」
と言われ、
「そうかな? フランケンシュタインというのは、怪物だと言われているが、本当は怪物ではなく神なのかも知れない。いや、逆に神と呼ばれている人たちの正体が、怪物なのかも知れないと考えるのは、おかしなことかい?」
と団長がいうと、
「いいえ、そんなことはないと思います。例えば、中国の西遊記のお話などは、孫悟空や沙悟浄、そして、猪八戒の三人は、それぞれ、罪を犯したために、サル、カッパ、ブタ、とそれぞれの妖怪、つまりは怪物のように言われていますが、本当は、沙悟浄も、猪八戒も、天界では、名のある神だったわけです。元帥だったり、将軍だったりと言われていたというじゃないですか。それを思うと、神だって、罪を犯せば、化け物として生きなければいけないということになるわけなので、そういう意味で、神々の世界でも、上下関係は、しっかりしているということでしょうね」
と団員は言った。
「いや、神々の世界だからこそ、余計に厳しいんじゃないかな? 神には神のプライドがあって、それが、自分たちのモラルとして確立している。それは、高等になればなるほど、その感情は高いものとなっていき。曖昧では許されないということになるんだろうね」
と、団長は言った。
「人間か、あるいは、それ以上の高等な存在でなければ、物語などというものを作ることはできない。だから、物語に、思いを乗せるというのは、高等な生物としてのプライドがあると思うんですよ。だから、高等であればあるほど、プライドが高い。そう思うと、昔から残されてきた物語や神話というのは、プライドが作り出したものだといってもいいのではないでしょうか?」
と団員は言った。
「やはり、この男を選らBで正解だったな」
と、団長は思った。
彼の才能に惹かれたのは確かだったが、それ以上に、団長が彼に惚れたのは、奇抜に思える内容を、話しながらでも、自分の中で説得力をつけていけることだった。
彼が、最初から理解していて、話をしていると感じることは、むしろ少ない気がする。話をしながら、そこで自分の考えを固めていける人間、それが彼の特徴であり、
「誰にもマネのできないところではないか」
と感じさせるところであった。
「フランケンシュタイン症候群」
というものは、人間の意識として、
「人間が、この世の動物の中で最高に高等な動物なんだ」
ということが大前提となり、
「そんな人間が、理想の生物を作り上げようとして、自分たちよりも、高等なものを作ってしまうと、どうなるか?」
ということを戒めたものなのだろう。
フランケンシュタインの物語は、本当は、人間のための理想の生物を作り出そうとしたはずなのに、狂ってしまった悪魔を作り上げたことで、人間よりも、強固で、しかも、頭脳が発達した、いや、悪知恵が発達したというべきか。そんな悪魔を作ってしまったことで、自分たちが、逆に支配されることになってしまうことへの警告である。
そこには、
「生殺与奪」
という問題が出てくるだろう。
基本的に、人間同士であれば、
「人を殺めてはいけない」
ということで、他人はおろか、自分の命も殺めることは許されない。
自殺も認めないのは、
「人間は神によって作られたもので、神によって与えられた命を、勝手に奪うことは、他人であっても、自分であっても許されない」
ということであろう。
日本の戦国時代の女性の一人に、細川ガラシャという人がいた。
彼女の夫は大名で、戦が起きる前触れとして、相手についている旦那をこちらの味方につけるために、家族を人質にしようと企んだ男が、せめてきた時、彼女はキリシタンだったため、
「自殺は許されない」
ということがまずは前提にあった。
しかし、自分がここで人質になってしまうと、夫のためにならないということで、苦肉の策を考えた。
それは、自分を部下に殺させるということであった。
「誰かに殺されるのであれば、自殺ではない」
ということなのだろうが、果たしてその考えは正しのだろうか?
確かに人に殺させれば、自殺ではないが、相手は自分を殺すことで、
「殺人を犯した」
ということになる。
いくら命令されたとはいえ、人を殺めるのはいけないことだとされている宗教に入信しているのに、その自分が、自殺できないという理由で、部下とはいえ、自分の殺害を命令して、強制的に殺人犯にするわけである。一種の、
「殺人命令」