予知能力としての螺旋階段
という発想が出てきたとしても、優先順位が、人間の命令を聞くということと逆になっていたかも知れないのだった。
そういう意味で、フランケンシュタインの物語を考えた人は、曲がりなりにも、
「ロボットの弱点」
を指摘したことになり。それが、警鐘となって、ロボット工学三原則を作りあげ、さらに、それらの優先順位の矛盾をさらけ出すことになるのだ。
元々、このロボット工学三原則という話は、科学者や物理学者が考えたことではない。
実はアメリカのSF作家が、自分の小説の作品の、
「ネタ」
として考えたことだったのだ。
今ではそれが全世界のロボット工学における課題として残され、先に述べた、無限の可能性をどのように解決するかという、いわゆる、
「フレーム問題」
という二つが絡み合って、ロボット工学の発展の足かせとなっているのだった。
それはまさしく、タイムトラベルにおける、
「タイムパラドックス」
と同じようなもので、その発想が、結局、
「パラレルワールド」
によって解決されるかも知れないとすれば、今の科学者などが提起、あるいは、理解していることの中に、ロボット工学の矛盾を解決できるようなヒントが隠されているのかも知れないといえるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、スパイラルという言葉を思い出す。
「負のスパイラル」
ということでよく使われるスパイラルという言葉であるが、言葉の意味としては、螺旋ということのようである、
これを平面的に見ると、蚊取り線香のような渦巻に見えるのだが、立体的に見ると、今度は螺旋階段に見えてくる。
これは、二次元と三次元という、次元の違いでもあるが、考えてみると、二次元と三次元で形が違うというのは当たり前のことで、
ただ、普通に二次元に見えているものを、三次元とは別のものとして解釈するだろう。
絵や写真と実際の立体の像とでは、普通に違うものだとして認識している。
だから、絵を見た時や、写真を見た時など、明らかにその光景は、
「似て非なるものだ」
と理解していることだろう。
しかし、螺旋階段と、蚊取り線香では、まったく違うものだと解釈している。
螺旋階段も上から見ると、蚊取り線香のように見えるが、その時人間は感覚的に、
「錯覚を見ている」
と感じることだろう。
普段、絵であったり、写真を見ている時、実際の光景の三次元と、そん色のない光景に見えるのは、普段から二次元と三次元を意識してみていないということだろう。
しかし、螺旋階段と蚊取り線香のように、ハッキリと別のものだと理解するのは、
「似たものであっても、二次元と三次元では別のものに見える」
ということで、無意識に二次元と三次元を意識しているということになる。
目の錯覚というのは面白いもので、いわゆる錯視と呼ばれるもので、
「サッチャー錯視」
というものがある。
これは、一つの絵を、普通に見た時と、逆さから見た時ではまったく違うものに見えるというものである。
この発想は、二次元だけに見られることではなく、三次元でも見られる、それは、天橋立の有名な見方としての、
「股覗き」
というものがある。
有名な光景を逆さから見ると、竜が天に昇っていくように見えるというものであり、その時に感じるのが、
「まるで平面を見ているようだ」
ということであった。
「人間は三次元を逆さから見ると、二次元を見ているかのような錯覚を覚え、それが元々二次元であっても、同じような錯覚を覚えるのが、サッチャー錯視というものだ」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味で、錯覚と呼ばれるものは、実に厄介であるが、突き詰めて考えてみると、それぞれに関係のないことのように思えることが、一周回って、同じ発想になるのではないかと思わせるのだった。
二次元と三次元の違いを、果たしてそのまま、三次元と四次元という発想に当て嵌めて見ることができるのかどうか、それが問題だったりする。
以前、特撮モノとして見たテレビ番組があったが、そこで四次元の世界というものを表現していた。
そこは、映像にする時に、歪んで見えるような見せ方をしていて、そこに迷い込んだ人間も、まるで大海原に出航していき、嵐に巻き込まれでもしたかのような船の中にいる感覚に見えた。
そして、その世界というのは、現実の世界と同じ場所にあって、空間が違っているだけのことなのだ。
何かの衝撃で小さな穴が開いたのか、お互いの声は聞こえているのだが、姿は見えない。まったく違う空間が出来上がっていて、そこに別の世界が広がっている。
「待てよ? これって」
とふと考えると、
「パラレルワールドと正反対の考え方ではないか?」
ということだったのだ。
パラレルワールドというのは、同じ次元で、別の場所、あるいは別の空間に、まったく同じような世界が広がっているという考え方である。
「パラレルワールドの発想が先なのか、それとも、四次元という発想が先なのか?」
と考えると、普通なら、
「四次元の発想が先のような気がする」
と思うのだが、実際はどうなのだろうか?
このような、似ている発想であるが、実際にはまったく正反対という発想も結構あるに違いない。
そんなことを、考えるのが好きだったかえでだった。
かえでは、高校時代から、SF小説であったり、物理学などの話であったり、さては、超科学的な発想の本を読むのが好きだった。
それらはどうしても、本としては難しく。読むのに苦労がある。
そのような本ばかりを読んでいると、疲れてしまい、そのうちに、読むことへの拒否反応を示すであろう。
そこで、歴史の本などを読むことで、頭を柔らかくしようと思うのだった。
それは、まるで、
「能というものの間に狂言というものを挟んでいるような感じだ」
と言えるもので、歴史の本が、一種お癒しになっているのだ。
また、超科学的なことでも、SF小説のように、フィクションとして、楽しく読めるものも、まるで狂言のようであるかのように読むのだった。
歴史の本も、どちらかというと、ノンフィクションが多い。歴史小説と、時代小説と、言葉は似ているが、実際には違うジャンルの作品があるということをご存じであろうか?
時代小説と呼ばれるものは、基本的に時代劇などのような、フィクションであり、時代考証は実際の時代に似せてはあるが、まったく同じである必要はない。あくまでも、歴史の中で、
「もしも」
といわれるようなものが書かれたりするのである。
たとえば、
「関ヶ原の合戦で、西軍が勝っていたら?」
という発想から、豊臣軍が勝つシュミレーションをしてみたりする。
だから、史実になるべく近づけた方が、フィクションでありながら、リアルな感じがするのだ。
歴史小説と呼ばれるものは、ノンフィクションである。一人の武将の生涯を描いたものや、歴史上の事件や戦を描いたものなどを、時系列に沿って描くのが歴史小説で、歴史の勉強には役立つであろう。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次