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予知能力としての螺旋階段

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 死ぬということがどういうことなのか、その一つとして、
「痛い、苦しい」
 という、感覚的なものがあるのは間違いない。
 けがをしたりした時、病気にかかって高熱でうなされた時など、
「こんなことなら、一層、このままコロッと行ってくれた方が楽だ」
 と感じたことのある人は少なくないだろう。
 確かに、死んでしまった方が楽だと思うこともあるが、逆に死を前にすると、いくら詩を覚悟したと思っている人も、ためらうはずだ。
 先述の、ためらい傷もその一つであり、大東亜戦争における日本軍の、
「神風特攻隊」
 もその一つであろう。
 神風特攻隊というと、
「片道の燃料だけを積んで、敵艦隊に体当たり」
 というのが、その正体なのだが、今の人間が考えれば、
「そんな理不尽なことないだろう」
 と思うに違いない。
 しかし、当時は教育として、大げさに言えば、
「日本人は、万世一系の天皇のために生存し、死ななければいけない」
 というような意識を持たされている。
 だから、死ぬこと自体を怖がるようなことはないはずだが、実際に、特攻隊として出撃した時、
「死にたくない」
 と思うようだ。
 家族には、遺書を書いて、
「立派にお国のために死んでまいります」
 という内容のものを届けているので、すでに家族は、
「死んだ者」
 として、覚悟を決めているはずだ。
 しかし、それが助かったりすると、
「天皇陛下のために死ぬことのできなかった」
 ということで、生き残った人間はおろか、家族までもが、非国民扱いにされる時代だったのだ。
 それだけ、戦争に対してのプロパガンダは激しいものがあり、そんな恐ろしい時代を、当時はどう感じていたのか、本当に分からない。
 しかし、敵艦に突っ込んでいく時、本当に怖くはなかったのだろうか?
 冷静に考えれば、ここまで来て逃げることはできない。生き残ったとしても、その後は地獄が待っている。
「貴様の同僚は、皆陛下のために、死んでいったんだぞ。お前だけのうのうと生き残って、恥ずかしいとは思わんのか?」
 と言われるのだ。
 しかし、考えてみれば、そんなことを言っている連中に、人を非難できる資格があるのだろうか。
 自分たちは、別に敵艦に突っ込むこともなく、兵隊にとられていないのだから、何とでもいえるというものだ。
 それこそ理不尽ではないだろうか。
 時代がいくら違ったとはいえ、誰でも人間であれば、死を前にすれば、恐ろしいと思いわないわけはないということだ。
 戦争というものがどういうものであるかは、今の自分たちには分からないが、生まれていた以上、必ず最後には死が訪れる。死を免れた人というのは、今までには一人としていないのだ。
「不老不死」
 中国などでは、それを求めるための旅をするなどという話も多いが、果たして、不老不死がそんなにいいものなのだろうか?
 実に難しい問題である。
 死というものが、どうしても、まわりの人間との関係にかかわってくると考えると、確かに、
「人間は、死ぬことを勝手に選ぶことはできない」
 と言ってもいいだろうが、突然にやってくる死を、運命としてすべて片付けられるものであろうか。
 戦争で殺されるという場合もあるだろう、もっといえば、
「自分はまきこまれただけで、死ぬ運命にあった」
 ということだってあるかも知れない。
 ひどい話としては、
「誰か別人と間違えられて、殺されてしまった」
 という理不尽にまみれたことだってあるだろう。
 殺した方は、恨みのある人間を殺したつもりになって、満足しているかも知れない。だが、実際には間違い殺人だったのだ。
 では、殺した方は本当に満足なのだろうか?
 人を殺そうと思って覚悟を決めて、見事に本懐を遂げたとしても、
「他に方法はなかったんだろうか?」
 と感じることもあるだろう。
 それが罪悪感というものであるが、それは、自分の中にある、
「勧善懲悪」
 という気持ちからだけだといえるのだろうか?
 何と言っても、人を殺すことはいけないことだとして育ってきた。人の自由を奪い、命までも奪うのだから、これ以上の罪はないだろう。
 放火という犯罪は、殺人よりも罪が重いと言われる。なぜなら、放火することで、その人のすべてを奪うことになるからだ。
 命、財産、家族、さらには生きがいになっているもの。すべてを有無もいわせずに葬ってしまうのだ。
 命と、財産、家族、生きがいを同じ天秤の上に乗せていいものかどうかは問題だが、命以外にも大切なものがたくさんあるということに違いはないのだ。
 命だけを問題視するのがいいことなのだろうか?
 そんなことを考えていると、自分の命が、自分だけのものではないという考えに至るということが、こういうことであると、つかさは考えるようになった。
 自殺が許されないという考えも、そこから来るのであれば、納得のいくものではないだろうか。
 そういう意味で、人間の生死を誰が決めているのかということが気になるところである。
 地獄には、閻魔大王というのがいると言われているが、閻魔大王は、
「死んだ人間で、生前に悪事を働いた人を裁く」
 という仕事をしている人である。
 閻魔大王には、人の生き死にを管理するという、
「生殺与奪の権利」
 など、あるはずはない。
 お釈迦様もそうである、
「死んだ人間が、極楽浄土でどのように過ごすかということを見守ってくれるのが、釈迦如来ではないだろうか」
 となると、人の生殺与奪の権利を持っている人はいないということになる。
 しかし、人の生死がすべて運命であるとすれば、その運命を決めている人がいるはずだ。今までに、そんな人がいるという話を聞いたことがない。
 そう思えば、
「生殺与奪の検知というのは、言葉だけのものであって、実際にそんなものを与えられた側も、与えた側もいない」
 という結論になるだろう。
 となると、あとは、
「神のみぞ知る」
 とでもいうかのような、運命でしかないだろう。
 そもそも、そんな権利が存在してしまうということは、
「人間や神よりも、偉いと言われる存在」
 が、成立するということになるではないか。
 そんなことが人間世界ではありえるはずもなく、生殺与奪の権利というのは、あくまでも、言葉や倫理の問題とされるだけのもので、実態としては存在しないのではないかと思うのだった。
 ただ、生殺与奪の権利と聞くと、普通は、
「人の命を奪える権利」
 という意識もあるだろう。
 しかし、
「与奪」
 となっている以上。与えるということもあるはずだ。
 そこで、つかさが考えた与えるという意味には二つがあり、善悪それぞれの発想だったのだ・
 善の方は、文字通りの、
「命を与える」
 という意味で、命を奪うのではなく、
「目的のためには手段を択ばず」
 という言葉があるが、その通りにしていれば、罪もない人も巻き込まれることになるだろう。
 そういう意味での目的達成者は、
「命を奪う」
 という方の生殺与奪になってしまうが、
「罪もない人の命を奪うというのは、無駄なことだ」
 ということで、普通なら殺されるところを、無益な殺生をしないという意味で、
「命を与える」