予知能力としての螺旋階段
「私だったら、同じシチュエーションになったら、分かるかも知れないな。むしろ私のような人にしか分かりっこないんだ」
と思っている。
人間の意識の中には、
「絶対ということはありえない」
という思いがある。
いくら、血が繋がっているとはいえ、繋がっているだけに、逆にプレッシャーがかかり、なかなか決められないだろう。
もし間違えてしまったら、
「間違えちゃった」
などと言って、バツの悪そうな顔をしてとぼけるようなマネはとてもではないが、できるはずなどないだろう。
それができるのは、本当の天真爛漫な人であり、しかも、
「その人であれば、まわりの人も許してくれる」
というような感じでなければ、うまくいくはずがない。
そんなことを思っていると、
「かえでだったらどうだろう?」
と考えるようになっていたのだ。
生殺与奪の権利
かえでは確かに天真爛漫だが、すべてにおいてというわけではなさそうだ。特にちひろのような相手に対しては、いつも気を遣っているように見える。ただ、それを認めてしまうと、先般から考えている、
「三すくみ」
の関係が崩れてしまうような気がするのだった。
ただ、かえでは気を遣っているように見えるのは、表から見ているだけで。かえで自身は自覚をしていないのかも知れない。
ということであれば、かえでという女性は、実に羨ましい性格であるといえるのではないだろうか。
まわりは気を遣っているように見えるが本人はそんなことはない。それが、かえでが自分で努力して作り上げた力であれば、それはそれで彼女の魅力であり、尊敬に値するものである。そういう目で見られるのであれば、十分だといえるのではないだろうか。
と考えれば、この三すくみの関係が、
「まるで親子の関係」
に置き換えることもできるのではないかと感じた。
立場が強い方が親であり。弱い方が子供。三人の関係としては。
「つかさの親がかえでであり、かえでの親がちひろである。ちひろの親は、つかさということになるだろう」
そうなるとこの関係は、螺旋階段のように、渦を巻きながら、上るか下るかの二つに一つではない。
まるで、波目になっているかのように、三人の関係の中で浮き沈みしているもので、この関係が、お互いを均衡に保つことで、まったく身動きの取れない関係にもしているような気がするといえるであろう。
つかさは、今度は、死ぬ時を選べないという言葉を思い出していた。
この言葉は宗教によっては禁止されている、
「自殺」
を裏付けるものである。
戦国時代の、
「悲劇のヒロイン」
と言われる、細川ガラシャが、その代表ではないだろうか。
彼女は、父親の明智光秀が織田信長に謀反を起こしたことで、不遇の生涯を過ごしてきた。
そのため、彼女は藁にもすがる思いだったのだろう。キリシタンになっていた。
豊臣政権になってから、細川家は秀吉政権の大名として、秀吉に恩義を感じていきてきたが、秀吉亡き後、関ヶ原前夜、
「上杉討伐」
という名目で、家康が軍勢を率いて、会津に向かっている途中で、石田三成が家康相手に兵を挙げ、その手始めに、
「上杉征伐で留守になった大名の家族を人質にして、自分の方につかせよう」
という作戦をとったことで、細川家にも、石田軍が押し寄せてきた。
その時、細川忠興の正妻である、細川ガラシャは、
「自分のために、夫が武士の道に外れたことになっては困る:
と思い、足手まといにならない方法をと考えたが、キリスト教では、
「自殺は許されない」
ということで、自害することはできなかった。
そこで考えたのが、
「自分の配下の兵に、自分を殺させる」
というものであった。
そもそもキリスト教というと、
「人を殺めてはいけない」
という、モーゼの十戒にもあるように、殺人は許されなかった。
だから、
「自分で自分を殺す」
という意味の自殺も禁じていたわけなのだが、では、だからと言って、
「自分を誰かに殺させる」
というのはいいことなのだろうか?
人を殺人犯人にするということであり、自分が戒律を守ったといえるのだろうか?
それが、つかさにはずっと引っかかっていた。
人に自分を殺させるというのは、自分の罪を人に擦り付けるということではないだろうか?
もし、他人に殺させるのであれば、その人は人殺しとして、
「業火の炎に焼き尽くされる」
ということになるだろう。
それが、家臣であり、しかも、戦場において、これまでたくさんの人を殺めた人間だから、自分ひとりくらいいいだろうとでも思っているとすれば、それは思い上がりもいいところである。
確かに、この話は、
「悲劇のヒロイン」
として、後世に残ってきたことだが、ちょっと考えれば、
「おかしいのではないか?」
と誰も思わなかったのだろうか?
つかさの中では、最初はハッキリとした考えがあったわけではないが、何か納得いかないところがあり。違和感が付きまとっていることだったに違いない。
そんなことを考えていると、
「人間というのは、無意識に自分を正当化しようとして、誰かに罪を擦り付けているのではないか?」
と考えられる。
細川ガラシャとしては、そんなつもりはないのだろうが、
「自分で自分の命を断つという勇気がもてないので、家臣に殺させた」
ともいえるのではないだろうか。
リストカットして自殺を試みる人は、ほとんどの人が手首に無数のためらい傷があるというではないか、いざとなって自殺できなかった場合を考えると、誰かに殺してもらう方が、確実だといえるだろう。
これが、細川ガラシャの本音だったとすれば、それは仕方のないことだろう。
しかし、まわりがこの話を必要以上に美化しようとして伝承しているのだとすれば、それは大きな間違いだといえるのではないだろうか。
確かに戦国時代という異世界に近いような時代背景の違いなのだから、考え方もまったく違ったとしても当たり前のことだろう。
しかし、モラルのようなものは、最低限度揺るぎないものであって、だからこそ、
「勧善懲悪」
などの言葉が、語り継がれてきたのではないだろうか。
それを思うと、逆に、
「歴史は繰り返す」
というが、三すくみの関係を見た時の、螺旋階段にならない。まるで波目カーブであり、波長が示すような動きが、時間軸にも存在しているのではないだろうか。
「人間というのは、生まれる時は選ぶことはできないが、死ぬ時くらい、選択できてもいいような気がするが、それができないというのは、人間の生死が、死後の世界との往復として、一本の道でつながっているのだとすれば、死ぬことも自分で決めてはいけないということになるのであろう」
と考えられるような気がするのだった。
人間の市というものを考えた時、
「死ぬのではなく。別の世界に行くだけだ」
ということであれば、死ぬこともそれほど怖くないのかも知れない。
そもそも、死ぬというのは何が怖いというのだろう?
死ぬとうことを怖いと思い込んでいる人は、自分を含めてという言葉が先行するが、ほぼ間違いなく皆だと思っているに違いない。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次