予知能力としての螺旋階段
というものである。
普通に考えれば当たり前のことなのだが、戦闘中などの有事の際には、そこまで考えられることはないだろう。そういう意味で、生殺与奪の、「与」の方になるのだ。
もう一つは、悪の方になるのだが、とは言っても、命を奪うよりはマシであるが、果たして、そう言えるかどうかというのは難しい話である。
命は奪わないが、正直なところ、生かしもしないという意味で、古代などに見られる、
「侵略して征服した先での民衆を、奴隷にしてしまう」
というやり方である。
戦争によっては、皆殺しにしたり、村を焼き払ったりするのだろうが、そんな時は、皆が惨殺されることになる。
二十世紀に入ってからも、尼港事件、通化事件、通集事件、南京大虐殺、ベトナム戦争における韓国軍などと、数々の悲惨な虐殺事件が起きている。
しかし、昔であれば、占領地域の人を奴隷にしてきたのだが、果たしてどちらがいいというのだろう。
奴隷とまではいかなくとも、捕虜という形で、連行されたり、強制労働をさせられたりするものだ。
確かに、戦争が終わって、平和条約が結ばれれば、開放されることもあるだろうが、その間は実に惨めなものである。
「捕虜の虐殺」
などというのも、普通にあったりした。
大日本帝国には、
「戦陣訓」
というものがあり、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉がある。
本当の意味としては、
「捕虜になると、相手国の軍人に何をされるか分からない。それくらいなら、死んだ方がましだ」
ということになるのだろう。
しかも、捕虜になって、まともに生きて帰国した人間はほんの一握りしかいないというのも歴史上の事実である。
さらに、日本の封建制度の時代には、
「百姓は生かさず殺さず」
とまで言われた時代があった。
それも、一種の悪の意味の与なのかも知れない。
ちなみに、江戸時代の士農工商であるが、この身分制度は、本当の意味での人間の差別が目的ではない。飢饉が起こった時など、農民が村を捨てて、都や江戸に出てきてしまって、さらに、農村が過疎化してしまうことで、今度、不作が去った時には、農民がいないということで、食料確保や年貢の取り立てができないことから、
「勝手に、村を出てはいけない」
あるいは、
「勝手に、職業を変えてはいけない」
としたのだ。
つまりは、
「農民に生まれたら、末代まで農民だ」
ということで、農村の危機を救うのが、目的だったのだ。
「生殺与奪の権利」
という言葉は、結構昔からあったもののような気がするが、果たしてどうなのだろうか?
「勧善懲悪」
という意味であれば、そんな権利は、誰にも与えてはいけない気がするが、善の方の、
「生を与える方」
であれば、また違った発想になるのかも知れない。
今の日本には、
「有事は存在しない」
と言われている。
確かに、憲法によって、戦争放棄、平和主義が謳われているので、戒厳令などもない。
そのせいで、世界的なパンデミックが日本にも起こった時、日本政府は何もできなかった。
他国のようなロックダウンができずに、私権の拘束というものが制限されていたのだ。
他の国であれば、外出命令に背けば、罰金や、禁固刑などに処せられるのに、日本ではそれだけの権限がないので、すべてが、
「お願い」
でしかなかったのだ。
そのせいもあって、日本でいう、
「緊急事態宣言」
というものを出しても、一回目は皆守ったが、二回目にはもう誰も守らない。
何と言っても、国がキチンと保証する外国と違い、日本ではお金は出さない。さらには、お金を出しても、混乱して支給が遅れてしまうなどのトラブルが多発していた。
それだけ、
「緊急事態と言いながら、緊急事態だという意識が乏しい」
のだった。
それは、国民にも言えることで、政府だけでなく、国民までが、そんな状態になるのだから、どうしようもなかった。
もし、今の世の中に、
「生殺与奪の権利」
などというものを備えた国家があったら、どうだろう?
さすがにそこまであからさまな国家はないだろうが、似たような国が世界には存在する。
国家が国民のすべてを支配して、本来であれば、自由競争が主流の世界に立ちはだかる国である。
元々、そういう国の理想は、
「民主主義の欠点である、限界を克服するための新しい主義」
として生まれたものだったはずだ。
自由競争の、犠牲となるのは、何と言っても、格差社会であろう。
貧富の差が激しくなってしまい、金持ちは財閥として、どんどん発展していくが、大多数の国民は貧困にあえいでいる。それが、民主主義、資本主義の限界だったのだ。
「国家が社会を拘束するということで、すべてを平等に分け与えるという理想のもとに始まったはすの主義も、一部独裁者が、政権運営のために、反発勢力を粛清し、そのために、処刑されていく人がたくさんいるという。暗黒の世界」
だったのだ。
そんな社会だから、せっかくの有能な人間まで、独裁者に背くということで処刑されたり、国外追放されたり、亡命したりということになり、国家の力はどんどん衰えてくる。
それでも、何とか政権維持のため、他国からの干渉を少なくし、どんどん孤立していく。
そして、最後には行き詰って、崩壊した国が大国の連邦であったソ連だったのだ。
民主主義、資本主義が、
「やっぱりよかった」
というわけではないが、独裁につながるのは、閉鎖的な国家では仕方のないことだろう。
それが民族主義と融合すると、ホロコーストなどの民族弾圧に繋がってくるのだ。
だが、今、日本はいろいろな国から外人が入ってきているが、果たしてどうなのだろう? 知り合いの人の中には、
「ヒットラーの気持ちがわかる気がする」
と言っている人がいた。
最初の頃は、
「差別になるから、まずいだろう」
と言っていた人も、
「外人が入ってきて、モラルや秩序をひっかきまわすくらいなら、鎖国すればいいくらいだ」
と言い出すくらい、今の日本は、侵略されているのかも知れない。
大団円
つかさがかえでにもう一つ恐怖を感じたのは、自分が、
「カプグラ症候群」
に襲われているからではないか?
という錯覚があったからだ。
カプグラ症候群というのは、
「家族や、恋人、親友などが、うり二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまうという、精神疾患の一種」
だと言われている。
つまり、被害妄想のようなもので、自分のまわりの人が、何かの秘密結社のような組織の力で、自分のまわりをすべて不利な状況に追い詰めようとしているのではないか? ということなのであった。
この発想は、そんなに昔からあるものではなく、ここ数十年くらい前からのものである。
これこそ、SFや特撮などのテーマとしては、恰好のもののようで、よく使われているのを知っていたので、意識としての理解はできた。
人の生死であったり、自分の生死に対して考えていると、なぜか、このカプグラ症候群を思い出したのだ。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次