予知能力としての螺旋階段
それは、つかさにも言えることで、つかさは、こんな発想は、自分のように予知能力のようなものを感じている人間だからできるのだろうと思っていたが、実際にはどうなのだろう?
「ひょっとすると、私と同じような力を、ちひろとかえでの二人も、持っているのかも知れない」
と、感じるようになった。
つかさが感じている、
「三すくみの関係」
同じ発想を少なくとも、ちひろと、かえでも感じているのかも知れない。
ただ、三すくみの方向が同じなのかどうか、そこは疑問であった。
少なくとも、かえでは違っているように思える。それはつかさが、かえでを苦手だと思っているからなのかも知れないが、信憑性がないわけではない。
そもそも、三すくみの考え方というのは、宗教からきているのかも知れないと思うと、前述の、弥勒菩薩と、
「宇宙喉との宇宙」
に、死後の世界が広がっているという考えも成り立つ気がする。
もっといえば、
「今想像されているいろいろな世界。これからも、もっと作られるかも知れないが、そんな世界というのは、すべて、宇宙の外の宇宙にあるという考えは、突飛すぎる考えであろうか?」
とつかさは考えていた。
実際の地球というのは、想像上の一部しか存在していなくて、別の世界には、ちゃんと存在しているのかも知れない。
生まれ変わる時に、完全に消したはずの記憶が、ひょんなことから思い出す人がいてもおかしくはない。それが、形になって行く世界が、あくまでも空想の世界と言われているが、実際には外の宇宙に存在しているとすれば、一部しか知らないという発想も、何かに似ているのではないだろうか?
つまりは、
「脳の十パーセント神話」
というものと似ているのではないか。
皆本当はすべてを知っていて、その残りの九十パーセントというのは、超能力などではなく、消されたはずの記憶であり、思い出せないようにされているだけのものだとすれば、超能力と呼ばれることで、
「どうせ一般人の俺たちには、そんな超能力なんか、備わっているわけはないんだ」
という意識を持たせることで、敢えて、
「封印された記憶」
を引き出すことを、意識させないという、少し回りくどいやり方で、隠しているのかも知れないと思う。
しかし、一見回りくどいように見えるが、このやり方が一番しっくりくるもので、
「記憶と、超能力とは違うものなんだ」
と思い込ませさえすれば、思い出さなくてもいいことは思い出さないだろう。
もし、思い出そうとすると、きっと心の中で、
「ここには踏み込んではいけない何かがある」
と思わせるのだろう。
それを感じさせるのが、自分の中にいるもう一人の自分で、その自分が表に出てきて、自分を怖がらせる力があるとすれば、それがドッペルゲンガーの正体なのかも知れない。
そこまでして、予知能力を封じたいのに、予知能力を醸し出すことで、やむおえず、ドッペルゲンガーを表に出した。
しかし、これはタブーなことであり、ドッペルゲンガーを出すことは、最終手段であり、それでも予知能力が収まらなければ、この世から消えるしかないのだろう。
そう考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
と言われていることや、これまでの著名人が、形は様々であるが、
「もう一人の自分を見た」
というような、まるで予知能力的なことを口にすると、もういけない。
この世に存在することが許されなくなり。死んでしまうということになるのだろう。
これが、ドッペルゲンガーの都市伝説だとすれば、この伝説には、見えない何かの力が働いているということであり、それこそが都市伝説なのだ。
ということは、
「実際に見ていることではなく、さらに一歩踏み込んだところが都市伝説なのではないか?」
と考えると、無限に広がるものを創造してしまう。
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョーシカ人形」
である。
そうやって、発想はまた元の場所に戻ってくるのである。
「宇宙の外にある、もう一つの宇宙」
というものを、パラレルワールドのようなものだと考えると、
「死後の世界」
と考えることで、その二つを行き来することができるのが、
「生まれる時と、死ぬ時」
である。
「生まれることと、死ぬことは、その人には選ぶことができない」
と言われる。
確かに生まれることを自分で意識することはできない。誰の親の元に生まれるのか、それはその人の運命だといってもいいだろう。
だから、よく皆がいうのは、
「もっと他の親から生まれたかった」
という言葉である。
本人とすれば、本音なのかも知れないが、親とすれば、これほど脱力感と絶望感に満ちた言葉はないだろう。
何かを目標に頑張っていたとしても、そこで、気力は一旦キレてしまう。
それを元に戻そうとすると、結構難しいだろう。意識がどこまで身体から憑依してしまったかのようになるかという問題で、下手をすると、魂が戻ってこないくらいのショックを受けることになる。
普段から気を張って生きている人間だとそういうことになるのだろうが、それだけのことなのだといえるだろうか?
子供だけを生きがいにして生きている人も少なくない。それだけ大人になると、それまで思っていた自分の目標というものをなくしてしまうのだ。
親は、
「自分だから、ダメだったんだ。子供にはそんな思いはさせたくない」
と思うことで、自分の夢を子供に託そうとする。
子供の頃は大人に、そして親には従順なので、親の思っているような子供は成長してくれるのだが、いつしか、子供は逆らうようになる。
それが、反抗期というものなのか、反抗期というのは、思春期と重なっていることが多い、小学生の高学年から、中学生にかけて。晩生の子は、高校生の頃まで、反抗期というものは存在する。
親と子の確執というのは、一度起こってしまうと、まず消えることはない。お互いに蟠りとなり、
「相手が親だから」
と子供は思い、
「相手が子供だから」
と親は思うのだ。
それぞれ、相手に気を遣っているつもりでも、相手はそれを分かっているから、変に気を遣わると、自分が負けたような気分になるのだ。それが、
「親子の確執」
と呼ばれるもので、
「血の繋がりの深さ」
ということになるのだろう。
よく言われることで、例えば、母親が何らかの理由で、子供が小さい頃に生き別れたとすれば、それらしい子が、もし、施設にいたりすれば、
「親だったら、自分の子供くらい分かって同然だ」
などと、ドラマなどのセリフなどにある。
あの言葉には、いつも不思議な感覚を覚えていた。
「いくら血のつながりがあるからと言って、赤ん坊の頃に別れた子供を当てるなんてことができるのだろうか?」
と思うのだ。
確かに分かる人もいるだろう。小さい頃の特徴、例えばほくろの位置だったりという特徴があって、それを覚えていたとすれば、その特徴で子供が誰かということを当てることくらいできるだろう。
だから、
「自分の子供が分かる」
というのは、それこそ、超能力のようなものでもなければ分かりっこないと思うのだ。
そういう意味で、つかさは、
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次