予知能力としての螺旋階段
無限というのは、大もあれば、小もある。そして不変もあるということで、実に面白いものだといえるのではないだろうか。
つかさは、自分たち三人を、
「まるで三すくみに関係のようだ」
と思っているが、皆どう感じているのだろうか?
つかさとしては、この三すくみの強弱がどうなっているのかを考えてみた。
誰が誰に強く、誰に弱いかということである。
自分は、実に慎重派だと思っているので、一番遠いかえでが苦手だと思っている。
あの天真爛漫さは、マネができないと思うし、ただ、その天真爛漫な性格に、何か矛盾のようなものを感じるのだった。
それがどこからくるものなのか分からず、そのせいか、苦手意識があるのだろう。
ということになると、自分が得意なのは、ちひろということになる。
ちひろとは同じようなところが多いので、結構性格的なところも分かっている。しかも、自分の性格がちひろに輪をかけたような慎重派だというのも分かっていることで、ちひろには強いのだろうと思った。
ちひろよりもさらに慎重なのは、きっと、
「自分には予知能力のようなものがあるからだ」
と思ってるかrだ。
下手にこのことを口外しようなどとすれば、何かよからぬことが起こりそうな気がするのだ。
元々は、ちひろとかえでの二人の関係性に、矛盾というのか、不可思議なもの、それは距離感だとは思うのだが、そのようなものが見えたことで、自分が、三すくみの一角を担うことで、
「三人がお互いにけん制しあうこの関係が三人、それぞれにいいのかも知れない」
と感じたのだ。
三すくみの関係というのは、三すくみであるということが分かっていれば、一方向が決まれば、すべてが決まったも同然である。
流れは一本しかなく、その円が時計回りに回っているのか、それとも、逆なのかというだけのことである。
そこに、それぞれの人間を置いていくだけのことなのだが、これも結局、皆が一歩も動かなければ、無限に続くということを意味しているのだろう。
ただ、人間というのは、必ず誰かが動く。耐えきれなくなって動くのか、それとも、誰かが死ぬということで動くのか、それとも、何かの外的要因で動くのか、その場合は、意識的なのか、無意識なのかということも問題になってくるに違いない。
そんな三すくみの関係は、
「平面なのか立体なのか、どっちなのだろうか?」
とも考えられる。
それによって、蚊取り線香のような渦巻になるのか、
「負のスパイラル」
という、立体的な螺旋階段になるのかの問題である。
もし、三すくみが螺旋階段であるとすれば、まるで、
「メビウスの輪」
に見られるような矛盾が発生し、それが、
「無限の膠着状態を開放するカギ」
なのかも知れないと考えた。
しかし、三すくみは、破った瞬間に、運命は決まってしまう。結局、すべてのものが滅びるということを示している。
どれかが動いて、そのために、動いたものを殺して生き残ったとしても、結局は、食べ物がないわけなので、生き残れない。
もっとも、三すくみの状態で食べることができないのだから、同じことであるが、そう考えると、三すくみはどうなるのだろう?
そう考えた時、不思議な光景を思いついた。
まるで、
「メビウスの輪」
に近い考えだが、なぜすぐに思いつかなかったのか、分からないと思うようなことであった、
それは、
「ヘビが自分の身体を、尻尾から飲み込んでいけば、どうなるのだろうか?」
という考え方である。
突っ込みどころは満載だが、発想としては、三すくみに近いものがある。
それと似たようなもので、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
というものとも、共通性がある。
要するに、
「世の中には、似たような矛盾していることが、ちょっと考えれば、たくさんある」
ということになるのであろう。
しかし、つかさも、ちひろとかえでの関係性がよく分からない。
この三すくみを考えると、
「かえでは、ちひろを苦手にしている」
ということになるであろう。
しかし考えてみれば、どうもそうではないような気がする。
別にその証拠になるような場面を見たわけでもないし、二人の素振りから感じることでもない。
ただ、それぞれに、弱いところ、強いところを補っているかのような気がするのだ。
それはまるで、
「三すくみの関係を二人で演じている」
というような感じである。
そんな関係が二人で築けるわけはない。そうなると、これもおかしな考えでもあるのだが、
「二人のうちのどちらかが、相手に、もう一人の相手を感じているのかも知れない」
という思いであった。
どっちがどっちというわけではないのだが、それは、その時と場合によって違う気がする。しかも、そのタイミングが絶妙なので、三すくみのような関係を感じさせずに、どちらがどちらにその時はもう一人を感じているのか分からない。
それは本人たちにとっても同じことであろう。
ただ、これも考え方だが、かえでとちひろは、お互いの相手に、もう一人の相手を感じているわけではなく、もう一人の自分が見えているのかも知れない。
それは、もう一人の自分が見えた時、
「もう一人の自分というのは、無数にいるんじゃないか?」
と感じたのかお知れない。
それが、まるで、マトリョーシカであったり、合わせ鏡であったりする。
三すくみも無限だと考えれば、
「この三人の関係は、まるで宇宙に通じるものがあるのではないだろうか?」
と考えられなくもない。
かなり壮大な考え方だが、
「宇宙というものも、同じ無限でも、違う意味の無限を秘めているのかも知れない」
と感じていた。
基本的に宇宙は無限だと考えている人は多いだろう。
そうでなければ、
「宇宙の外は。どうなっているんだろう?」
という疑問が起こっても無理もないことだ。
実際には、そんな宇宙の外には、さらい別の宇宙が広がっているという考えもあったりする。
そういえば、つかさは子供の頃から、宇宙の外に関して、自分なりの発想を持っていたのだ。
それは、
「宇宙の外に広がっているのは、死後の世界であったり、異次元と呼ばれる世界であり、その世界は、この宇宙と酷似した、まるで鏡のような宇宙ではないか?」
という思いであった。
つまり、
「人は死ぬと、その別宇宙に飛んでいき、そこでも同じように生きていて、そこで死ぬとこっちに戻ってくる」
という考えであった。
つまりは、
「輪廻転生」
という考え方にも似ているし、異世界や死後の世界、時間がずれた世界という意味で、かえでや、ちひろが思い描いている世界とも共通しているところがある。
そういう意味で、つかさは、ちひろやかえでと出会う運命にあったともいえるのではないだろうか。
ただ、そこまでまだつかさは、ちひろやかえでのことを分かっていない。もっと分かるようになれば、宇宙の神秘の謎にも近づけるのではないかと思った。
つかさは、父親が、昔の特撮が好きだったことで、聞かされたことであったが、面白いエピソードのドラマがあったといって話してくれたのを思い出した。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次