予知能力としての螺旋階段
泥棒というと、仲間がいて、連絡の際に、口笛を使ったりすることがあるだろう。だから、それにあやかってのことではないだろうか。
ただ、今は深夜まで起きている人が多かったり、お店も二十四時間のところも多く、よほどのところでなければ、
「草木も眠る丑三つ時」
などと言われるような時間帯は、都会で訪れるようなことはないのである。
そして、この蛇の場合も理由らしきものがある。
インドやアラビアなどでは、蛇使いなるものがいて、
「笛を使って、蛇を躍らせる」
というようなことをしているところがある。だから、口笛であっても、蛇はその習性で、蛇が集まってくると言われるようになったのだろう。
だが、悪魔を呼び出すことに関しては、やはり呪文でもなければ無理であろう。わざわざ悪魔を呼び出してどうしようというのか? しかも、悪魔を呼び出して、願いを叶えてもらおうとすると、必ず、自分の命などの代償が求められる。死を覚悟してでも誰かを呪い殺したいというほどの人間でなければ、普通はそんなことはしないだろう。
そして、もう一つは、
「この世のものではないものが見える」
というものだ。
この場合は、鏡と鏡の間に自分を置くわけではなく、人形を置くというものだ。
人形というものは、人や動物の形を模しているので、
「魂が宿る」
と言われるものであった。
その人形が、合わせ鏡の効力によって、無限に映し出されるのだから、
「ありえないことが映し出される」
という事態に陥ったとしても、おかしくはないだろう。
例えば、
「本来であれば、左右対称に映るはずなのに、左右対称ではなかった」
あるいは、
「人形の表情が恐ろしい表情に変わっていた」
などと言われるものがよく聞かれるものだという。
さらに、
「鏡というものが、異次元の世界の入り口ではないか?」
という言い伝えがあるが、一枚ではその効力は少ないが、合わせ鏡にすることによって、さらに、その力が強まることで、異世界との境界がなくなり、完全に通れるようになったことで、不吉や災難が、こちらの世にやってくるという考え方である。
鏡に異世界の発想を絡ませることで、さらに神秘性をハッキリさせるというこになるだろう。
そんな恐ろしいものを調べれば調べるほど、異世界であったり、悪魔であったりと、都市伝説がいくらでも生まれる土台だといってもいいだろう。
さて、もう一つは、この合わせ鏡に、
「突き詰めていけば、共通点が多い」
と考えられる、
「マトリョーシカ」
のようなものが考えられる。
マトリョーシカというのは、ロシアの民芸品と言われる人形であり、
一つの大きな人形が蓋のようになっていて、それを外すと、またその中に少し小さな人形が入っているという仕掛けである。
さらに、その蓋を開けると、さらにその中に人形が……。
これがマトリョーシカ人形である。
そのマトリョーシカ人形は、入れ子になっているので、どんどん中を開けていくと、少しずつ小さな人形が出ていくという仕掛けである。
これは、どこか合わせ鏡に似ていないだろうか?
つまりは、
「無限」
という言葉が共通項ではないかと思うのだ。
合わせ鏡も、左右に映っている自分の姿が、どこまでも、映り続けることになる。反対川にもこちらにも相手を映し出すものがあるので当たり前のことなのだが、その姿はどんどん小さくなっていく。
だが、理論的にはどうなのだろう?
どんどん小さくはなっていくが、ゼロになるということはない。それはマトリョーシカでも同じことで、理論的にであるが、無限にマトリョーシカ人形を作ることができるのだとすれば、一つだけいえることとして、
「最後にゼロになることはない」
ということだ。
だから、無限と言えるのであろう。
ただ、これは理論的なことであって、理屈だけのことだ。つまりは、
「無限は、いくらで割ったとしても、無限でしかない」
という考え方と、もし、最後にゼロになると仮定すると、
「逆に何かから割った数を回答だとすると、回答がゼロになるような掛け算というのはありえない」
と言えるだろう、
これは、ゼロ除算と呼ばれる計算方法に似ていて、
「ゼロに何を掛けてもゼロでしかないということ
であり、割られる数は何であっても、かまわないということになる。
つまりは、計算としては、
「解なし」
ということで、
「してはいけない計算」
と言われている。
つまりは、無限というものは、計算の世界においては、実に曖昧なものであり、
「大きくても無限、小さくても無限」
というのではないかと思うのだ。
よく言われるのは、
「無限大」
という言葉はよく聞くが、
「無限小」
という言葉はほとんど聞かない。
だが、実際には住学用語としては存在しているのだが、普通の社会で聞くことはないだろう。専門用語と言ってもいい。
それだけ、無限というと、大きいという意識が強く、小さい砲の無限という感覚はほどんどないといってもいい。
「ゼロに限りなく近いものが、無限小」
ということであろう。
そして、このマトリョーシカと、合わせ鏡を考えていて、もう一つの共通点が、
「スパイラル」
というものであった。
螺旋階段と言えばいいだろうか?
平面なら蚊取り線香であり、立体なら螺旋階段という、
「パラレルワールド」
において、かえでが考えていたことであったが、まさか、同じ発想を違うことで考えているなど、かえでも、つかさも考えが及ぶはずもないだろう。
つかさが、ちひろに興味を持ち、その友達である、かえでに興味を持ったというのは、そういう意味で、別々のことを考えていても、共通したところに落ち着いてくるからでないだろうか?
この三人は、一種の、
「三すくみ」
を感じる。
じゃんけんであったり、動物などの三すくみなどいろいろあるが、三すくみと言ってつかさが思いつくのは、
「動物の三すくみ」
であった。
「ヘビはカエルを呑み、カエルはナメクジを食べる。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
というものである。
この考えでいけば、それぞれが同じ場所にいるとすれば、どうなるだろう?
お互いにけん制しあって、動けなくなるのではないか。
ヘビは、カエルを食べようとすれば、ナメクジに溶かされてしまう。カエルは、ナメクジを食べようとすると、自分がヘビに食べられる。そして、ナメクジはヘビを溶かそうとすると、カエルに食べられる。
一見それだけに思うが作用はそうではない。もし、自分が優位に立っている相手を倒してしまえば、残るのは、苦手なものだけだ。しかし、今の状況であれば、自分が優位に立っているものが、自分の天敵の、天敵になっているので、下手に存在を消してしまうと、相手は楽々と自分を滅してしまうことになる。そういう意味で、まったく動きが取れないということになるのだ。
こんな状態こそ、
「永遠に続く膠着状態」
であり、大きさも何も変わらないが、
「無限の不変の法則」
とでもいえばいいのか、
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次