予知能力としての螺旋階段
ただし、乙姫側の、勝手な思い込みによるもので、人の人生を狂わせてしまったのだから、これでいいといえるのだろうか?
また、そんな太郎も、乙姫と一緒に暮らせることが幸せだと願うのだろうか? 実に疑問である。
そして、この物語はSFをも感じさせる。
「海の底では数日のはずが、地上では数百年が経過していた」
この考え方は、アインシュタインの相対性理論ではないだろうか。
「光の速度で進めば、その中の時間は、ほとんど経過していない」
と言われるのが相対性理論の考え方で、例えば、
「ロケットで、一年間宇宙を探検して地球に戻ってくると、数百年経過している」
ということになると、言われているのだ。
ということは、果たして竜宮城というのはどこにあったのか? ということになる。
しかも、この理論は、アインシュタインによって導かれたもので、十九世紀から二十世紀に言われたことである。
浦島太郎の話が編纂されているお伽草子は、時代としては、室町時代というから、今から七百年くらい前になるであろうか? しかも、その編纂にともなって、最初からフィクションで作られたものではなく、各地に残る伝説などをまとめたものが浦島伝説としてあると考えると、その起源はさらに古いものだということになる。
これこそ、七不思議のようなもので、誰に分かるというのだろうか?
相対性理論もそうであるが、そもそも、この話にはかなりの無理がある。
カメになって地上に上がってきた乙姫と鶴になった太郎が末永く暮らしたというが、それは、人間のままではいけなかったということなのだろうか? 何も化身しなくとも、竜宮城の世界をそのままでいいのではないか? いま、むしろ、浦島太郎をもう一度、竜宮城へ連れ帰ることはできなかったということなのだろうか?
わざわざ失意のどん底に落とさなければ、太郎の気持ちを掴むことが乙姫にできなかったというのであれば、それは、乙姫のわがままではないかとも思える。
そもそも、太郎にお礼のつもりとはいえ、竜宮城に連れて行かなければ、こんなことにならなかったのだ。
ということは、乙姫は太郎を好きになったのは、カメが連れてきてからのことなのだろうか? そうなると、苛められていたカメというのは、乙姫ではないということになる。
普通に考えれば、乙姫は竜宮城では、お姫様。つまりは、竜宮城の主から見れば、娘にあたる存在なのか、そんな存在の乙姫が、
「人間を好きになったから、結婚したい」
と言ったとすれば、そんなことを主が許すと思うだろうか?
「お前はこれから、竜宮城の支配者になるのだから、人間なんかと契りを結ぶことなど許されない」
と言われるに決まっている。
となると、浦島太郎を先に地上に返し、そこで、似ても似つかない姿にしておいて、自分もカメになって地上に行き、そこで、二人が幸せに暮らそうと計画をしていたのだとすれば、これは、乙姫が計画した、
「駆け落ち」
ということになる。
そうなれば、太郎は本当は乙姫から、
「この玉手箱は、何か困ったことがあったら、開けてください」
と、反対のことを言われていたのではないだろうか?
そうすれば、おじいさんになって、それが乙姫の愛した太郎とは似ても似つかないから、主にもバレず、しかも自分がカメになり、太郎が鶴になってしまえば、追手が来たとしても、見つかることはないと思ったのかも知れない。
ここまでの考えは、かなり歪んだ考えなのかも知れないが、辻褄の合わないことを整理していって、この話の主旨が、
「恋愛物語」
だとすれば、この解釈もあながち間違っていないのではないかと思えるのではないだろうか?
そう思うと、つかさは、自分なりに納得するのだった。
浦島太郎であったり、ギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの神々」
であったり、昔の人は、
「擬人化した神や別世界の女王というものが、一番人間臭いものだ」
ということを言っているように思えてならない。
今の世の中であれば、
「人間が一番。人間臭い」
と言ってもいい世界になってきているように思う。
だが、昔は物語の中で擬人化することで、人間臭さを表現しているということは、それだけ、普通の人間は、かなりしっかりしていて、人間臭さを忘れているのかも知れない。
そこには、身分制度や、国家による制限、人権というものが、かなり狭められた世界に住んでいることで、小説の中での人間臭さに、むしろ、皆憧れのようなものを持っていたといえるのではないだろうか?
そんな中、超能力を持った人間がいたとすると、その人間が、浦島太郎のお話や、ギリシャ神話のような話を作ったのではないかとも考えられる。
予知能力を持った人がいたとすれば、それをまともに表に出すと、まわりから、気持ち悪がられるかも知れない。
中世ヨーロッパで流行ったと言われる、
「魔女伝説」
これは、世間の人たちから恐れられ、
「魔女狩り」
などと言われて、火あぶりの刑にあったりしたと言われている。
恐ろしい話ではあるが、それだけ、魔女に近いとされる人間がいて、その人たちがどこかに災いを起こしたことがあるから、そのような風習ができたのではないだろうか?
いくら何でも、火のないところに煙が立つはずもなく、魔女狩りに値するだけの、予知能力や、超能力をその人が誇示したことで、気持ち悪がられ、それが、
「世間を騒がせる」
ということでの、一種の見せしめだったのかも知れない。
そう思うと、宗教弾圧に似たものだったのかも知れない。
魔女と呼ばれる人たちは、実は、
「宗教団体が不況のための隠れ蓑にしていたこと」
そんなことだったのかも知れない。
日本でも、江戸時代など、隠れキリシタンを見つけるため、
「踏み絵」
なるものを使って、隠れキリシタンをあぶり出そうとしていたではないか。
秀吉だって、長崎で磔の刑にしたことがあった。歴史上では、黒歴史のように言われているが、果たしてどうだったのだろうか?
確かにやったことは残酷であり、他に方法がなかったのかとも思うが、
「仕方がなかったことだ」
と考えれば、そう言えなくもないと考えられる。
日本にキリスト教が伝わったのは、いわゆる十六世紀のことで、世界では、
「大航海時代」
と言われていた時代である。
東アジアに渡ってきた宣教師は、その国で布教活動を始める。
そして、信者を増やし、それによって、元々あった国教である、その国の宗教団体ともめることになるだろう。
そうなると、少なくとも内乱が勃発し、それをいいことに、
「宣教師を守る」
とでも言ったのだろう。
母国から軍隊を派遣し、その国の治安を取り戻すという名目で、植民地化してしまうというのが、当時の植民地のやり方だった。
それによって、東アジアのほとんどの国は、欧州各国の植民地となり、
「植民地獲得競争」
の犠牲になっていったのだ。
それを日本が知っていたとすれば、キリスト教弾圧という理屈も分かるというものだ。キリスト教の布教が、植民地獲得のための手段であったとすれば、由々しき問題でしかないではないか。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次