予知能力としての螺旋階段
ロボットというものが、確かに、タイムマシンと双璧で、近未来の創造物として開発されるもののだと思っていたが、その両方ともに、それぞれ不可能だと思われることが先に見つかったことで、開発が遅れている。しかし、これは開発されてできてしまってから問題になるよりもかなりいいことではないか。
そう考えると、昔の小説家にしても、科学者にしても、
「まるで予知能力でもあるんじゃないか?」
と思わせるではないか。
考えてみれば、今の文明の最先端ともいえるIT関係の開発において、
「何かが本番を迎える時は、絶えず、最悪のことを考えて対応しないといけない」
という話を聞いたことがある。
世の中で、何かのシステムが変わったりした時、ほぼ例外なく、何かのトラブルが発生するということはつきものである。
大きな金融機関が合併することで、システム統合をしたことで、数日間、全世界の会社の取引ができなかったり、ATMにカードを吸い込まれたまま出てこないなどのトラブルが、全国のATMで発生し、大混乱を発生させたりして、大問題になったりしたことだってあったではないか。
本人たちは、最善を尽くしているつもりでも、思ってもいなかったことからトラブルは起こる。
それを考えれば。
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
という言葉を思い出し。可能性が無限にあるのだから、そのすべてを理解して、事前に対応するなんてできっこないとどうしても思ってしまう。
「その思い込みがあるから、却って、失敗に繋がるのではないか?」
と、つかさは考えていた。
「あまりネガティブになると、うまくいくものもうまくいかなくなる」
とも言われるが、それはあくまでも精神論であり、システムに携わっている人間は。それでは済まされないということになる。
そう思うと、やはり、最悪の状況を考えて、あらゆる手を尽くすのは当たり前のことで、それが仕事というものだということになるのだろう。
だが、ロボット開発にしても、タイムトラベルにしても、考えれば考えるほど矛盾が生まれてしまうというのは、
「そこが人間の限界なのではないか?」
ということも言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「神と人間の違いは、限界を考えるか考えないのかも違いなのかも知れない」
と感じた。
人間はどうしても限界を感じてしまう。だから、限界を感じないものとして創造した神というものに憧れを持ち、嫉妬を感じ、そのために、ギリシャ神話などでは、オリンポスの神々が、
「いかに、人間臭いか?」
ということを著しているのだろう。
特に全能の神であるといわれるゼウスが一番嫉妬深かったり、人間が神に近づこうとすることを、必要以上に嫌なものとして感じるのはそういうところからきているのかも知れない。
そう考えると、これから開発するはずのものを、まずは、否定から入るというのは、それが人間の防衛本能だといえるのか、それとも、防衛本能からくる、予知能力が覚醒したということなのか、本人たちは、きっとそれを予知能力だとは思っていないだろう。それにその考えを思いついた時、まさかそんなにも開発の足枷になってしまうとは、想像もしていなかっただろうからである。
確かに、
「こんなことを言えば、学者を刺激したり、開発の問題になってしまうかも知れないとも思っただろうが、しょせんは素人の思いつきで、自分の小説としての、ただのネタとして使っているだけだ」
と思うと、そこまで難しい問題だとは思わないことだろう。
人間に限界があるということを考ええ、そしてそれが神との違いだと考えると、
「別に神に近づきたいとは思わない」
と感じる。
万能であるがゆえに、嫉妬深かったり、下しか見ないというのが辛く感じられるのではないかと思うからだった。
そんな予知能力を、霊感であったり、第六感というものに位置付けるのは、やはり、
「脳の十パーセント神話」
と言われるものからきているのかも知れない。
超能力というものをどこまで肯定して考えるかということになると、都市伝説や、オカルトのような話をどうしても、避けて通れないだろう。
都市伝説という言葉は、本来であれば、現代のものなので、昔から言われていることに当て嵌まるかどうかは分からないのだが、それだけ昔から普遍に疑問として言われていることなので、あまり甘くみない方がいいかも知れない。
つかさが、最近気になっているものとして、
「浦島太郎」
というお話である。
この浦島太郎という話は、いろいろな側面から見ることができる。そういう意味では、
「よくできている」
と言っても過言ではないだろう。
しかし、この話は、実は他のおとぎ話と同じで、続編があるのだ。
考えてみれば、浦島太郎という話は、カメを助けたことで、カメにそのお礼と言われて、竜宮城へ連れてこられる話である。そして結末としては、竜宮城から帰った浦島太郎が、
「開けてはいけない」
といわれる、
「見てはいけないのタブー」
である、乙姫様からもらった玉手箱を開けてしまって、そのままおじいさんになってしまったという話である。
パッと考えれば、
「あれ? おかしいな」
と思うのではないだろうか。
浦島太郎はカメを助けるといういいことをしたはずなのに、竜宮城に招待されたのだから、最後はハッピーエンドでなければいけないはずだ。これでは、いいことをしたのに、助けたカメに騙されて、竜宮城に連れ去られ、そこで、幻影の楽園を見せられ、楽しんだあと、陸に戻ってくると、そこは、七百年以上の未来の世界だったということである。
誰も知らない土地に一人取り残された浦島太郎は、悲しみのうちに玉手箱を開けて、おじいさんになったということになり、何が言いたいのか分からない世界である。
しかも、陸に上がって知っている人が誰もいなくなって、失意のうちに玉手箱を開けてしまうという心理がよく分からない。
太郎は、
「どうせ生きていても仕方がない。何が出てくるか分からないが、これで死ねるのであればそれも仕方がない」
とでも思ったのか、だが、そんなことは物語には書かれていない。
それはそうだろう。そもそも、子供向けのおとぎ話で、自殺を悟らせるような心情を伝えるわけにはいかない。しかし、それなのに、いいことをしたのに、最後に悲惨な運命が待っているというのは、果たしてどういうことか?
いや、実際には、この話には続きがあったのだ。
カメになった乙姫が、自分が好きになった太郎を追いかけて陸に上がり、太郎は鶴になって、二人は末永く暮らしたということが、本当の話であり、本当はハッピーエンドだったのだ。
冷静に考えてみると、最初に太郎に助けられたカメと、乙姫が同一人物(カメ)だとは言えないだろうか?
最初に太郎に助けられて、助けてくれた太郎を好きになった乙姫は、太郎をお礼のために竜宮城に連れていった。しかし、陸の世界を恋しがる太郎を見て、
「帰してあげたいが、自分の気持ちが耐えられない」
ということで、苦肉の策として玉手箱を渡したと言えないだろうか。
ということは、このお話は、恋愛物語だといえるだろう。
作品名:予知能力としての螺旋階段 作家名:森本晃次