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都市伝説の自費出版

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 これは、死後の世界にも言えるだろう。
 死後の世界というのは、
「人間が死んだ時に行く世界であり、絶対に帰ってこれない世界だ」
 と言われているが、誰も見たことはないはずなのだ。
「死んだ人間が生き返ることはない」
 という絶対的な理論で考えるならば、死後の世界だって、見た人がいるわけではないので、これほど信憑性のないことはない。
 それなのに、ほぼほとんどの人間が信じている。それは、
「その世界の存在が、いかに人間社会に影響を及ぼすか?」
 ということである。
 人間に限らず、生死に関しては不思議なことが多すぎる。
 生まれ変わるという発想が宗教的には、一般的な考えであるが、生まれ変わるとして、次に人間に生まれ変われるのかどうかも分からない。
 ということは、自分の人生は本当に人間だったのかということも怪しくなってくるではないか。
 そうなると、宗教のいう、
「死んでから、極楽浄土にいける」
 ということで、救いを求めるのであれば、生まれ変わるという発想が果たしてありなのかどうかである。
 せっかく極楽浄土という夢のような世界にいけたのであれば、ずっとそのままいればいいものを、生まれ変わり、
「輪廻転生」
 などという考えがあるのは、おかしいのではないだろうか?

                 脳の神話

 神様や仏様というのは、死んでから、この世に生まれ変わってくるというものではなく、あの世と呼ばれるところで神になったという発想でいいのだろうか。
 これだけたくさんの宗教が乱立しているのだから、元々は一つだったものが枝分かれする形で生まれてきた宗教も多いだろう。
「ひょっとすると、仏教もキリスト教も、元々は同じ発想だったのかも知れない」
 などというのは、罰当たりな発想なのだろうか?
 それを思うと、あまり宗教を深堀りするのは、怖い気もする。
 さて、科学における矛盾も、タイムマシンであったり、ロボット開発のようなものが一番言われているものであろう。
 それを、
「科学における限界だ」
 と考えるのであれば、逆に、人間の発想の限界ではないかともいえるのではないだろうか。
 途中までの発想ができていて、それ以上を覗こうとすると、もう一度同じところに戻ってくる。
 その発想自体が、
「まるで、異次元への発想」
 に思え、その発想は無限というものと切り離せないはずなのだ。
 それなのに、限界を感じること自体が、矛盾なのであり、ということになると、無限というそのものが、パラドックスだと考えられないだろうか。
 そう考えると、
「パラドックスの中にパラドックスを作ってしまっている」
 という発想ができあがり、そこには、
「左右に置いた鏡」
 という考えが浮かんでくる。
 そして、そこに移っているのは、無数の自分であり、どんどん小さくなっていくのだが、決してゼロにはならないということである。
 そう考えると、
「無限というものは、決してゼロにならないもの」
 という発想に繋がっているのではないだろうか。
 その発想から生まれた玩具が、ロシア民芸などで有名な、
「マトリョーシカ人間」
 なのではないかと思うのだが、どうであろうか?
 つまり、
「科学の限界」
 という発想は、
「矛盾と無限の関係」
 という言葉で言い表せるのではないかと思うのだ。
 無限というものが、繰り返しによっておこる現象が、どこまで行っても、ゼロにならないということを示しているのであれば、そこに限界を感じたとすれば、それは、矛盾でしかないからである。
 そう考えると、科学の限界など、ありえないのではないかという発想も立派に存在するものであろうし、無限が異次元を証明してくれるのに、限界を感じてしまうところに、矛盾がある。それをパラドックスという形で証明しているのだとすれば、パラドックスこそが、タイムトラベルの証明なのではないだろうか。
 パラドックスや矛盾をなくすことが、無限を有限にする。しかし、有限、つまり限界を感じてしまうということは、タイムマシンの開発はできないということの証明になってしまう。
 タイムマシンはありえないが、タイムトラベルは不可能ではないということになるのではないかと思えてくるのだった。
 ロボット開発はどうであろうか?
 ロボット開発には大きな問題が二つある。
 一つは、
「ロボットがどこまで人間と同じような判断ができるか?」
 といういわゆる、
「フレーム問題」
 に絡む問題と、もう一つは、
「フランケンシュタイン症候群」
 と呼ばれるもので、いわゆる、
「ロボット工学三原則」
 の問題である。
 これは、この三原則がキチっとできていないと、
「人間が、自分たちの開発したロボットに支配されてしまう」
 という本末転倒な話になりかねないということである。
 これも、大いなる矛盾と、無限という問題が大きく立ちはだかる。特に、最初の
「フレーム問題」
 はまさにそれである。
 例えば、
「ロボットに、穴の中にある燃料を持ってこい」
 という命令を出したとする。
 するとロボットは言われたとおりに、箱を持ち運ぼうとして、箱を持ち上げると、爆発してしまった。
 燃料の箱の上には、動かすと爆発してしまうという爆弾がセットされていた。ロボットはその爆弾のことも知っていたが、爆弾を動かすと、爆発するということは知らなかった。燃料の箱を動かすと爆発するというところまで発想ができなかったのだ。
 そこでロボットに、今度は、箱を動かすと爆発するということを頭にインプットさせたのだ。
 また、同じことをさせようとすると、今度は目的地があるその前で、動けなくなってしまった。
 その理由は、ロボットが、次に起こる無限の可能性をすべて考えようとしてしまうからであった。
 当然、無限にある可能性を考えるのだから、結論が出るはずもない。そこで、開発者はロボットに、
「その場合には、どのようなことを考えればいいのか?」
 という、まるで絵をフレームに当て嵌めるように、考えさせようとしたのだが、考えてみれば、
「可能性が無限なのだから、フレームだって無限にあることになる」
 ということになり、土台、フレームに当て嵌めることも無理であった。
 つまりは、無限のものをいくらパターン化しても無理なのであって、
「無限をいくら何で割っても、無限にしかならない」
 ということであり。
「数字はいくら何で割っても、絶対にゼロになるということはない。それが無限の可能性である」
 という、異次元の考え方と同じだといえるのではないだろうか。
 ただ、フレーム問題というのは、人間には、難なく解けている。次にいくら、どんな可能性が無限に広がっていても、その出来事から、関連したことであれば、予測することは、安易なことである。
 それを思えば、人間というのは、どれほど素晴らしい脳を持っているかということである。
 神様が作ったのだとすれば、人間が神様のマネをしようとしても、土台無理な話である。まるで、聖書の、
「バベルの塔」
 の話のようではないか。
「人間が神に近づこうなどというのは、これほどおこがましいことはない」
 ということであろう。
作品名:都市伝説の自費出版 作家名:森本晃次