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都市伝説の自費出版

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「今は災害時と同じ危機的状況にあるので、災害時と同じで、皆さんの命は皆さん自身で守ってください」
 などと言われ、
「何が、安心安全で、国民の命を守るだ。ウソばっかりじゃないか。結局最後は、政府の責任を投げ出して、国民に丸投げをした政府を、誰が信じるというのか」
 と、感じた国民がどれほどいたことか。
 今でも、政府が広げた責任を、国民に押し付けて逃げに走った政府を許さないと思っている国民も少なくはないだろう。
 それが、日本政府というもので、いくらソーリが変わろうとも、責任政党が変わろうとも、同じことではないだろうか。
 そういう意味で、政府が、
「国民のため」
 などという政策は、ほとんどが、
「自分たちのため」
 なのである。
 まるで、戦争において、国民を盾にして逃げ出す政府と同じではないか。少なくともかつての大日本帝国における政府にはそんなことはなかった。軍隊にしてもそうだ。それを勘違いさせているのは、アメリカに押し付けられた民主主義で教育を受けたせいであり、そのせいで、今の政府も結局、自由というものをはき違えて、保身のために、国民を犠牲にするというやり方が正当だと思うようになっているに違いない。
 外交、経済政策などの政策は、国民二の次で、自分たちの政権維持のためにしか行っていないということだ。だから、今の選挙というものが、
「消去法」
 でしかないのである。
 それは、現代においては、今も昔も変わっていないのではないか。ある意味、それが、民主主義の弱点なのではないかということを考えてしまうのだった。
 さて、この都市伝説であるが、現代、つまり時代の誤差は若干あるにしても、戦後の、
「アメリカによる押し付けの民主主義」
 以降に、伝承された噂話だといえるだろう。
 しかも、その根拠があいまいで、不明なものということは、
「現代の科学では解明できない」
 という意味があり、一種の超科学であったり、ホラー色豊かなものを考えさせるものであったりする。
 科学で解明できないような話というのは、結構昔から伝えられていて、その中で、科学の発展により、解明されたものもたくさんあり、その中でも、
「解明できないもの」
 ということで残ってしまった若干の話が、都市伝説として伝承されている言ってもいいのかも知れない。
 もちろん、現代になってから言われ出したものもたくさんあるだろうが、昔から言われてきていて、科学で今でも解明できないものが、そのまま都市伝説として残っているものもあるだろう。
 しかし、それら昔からあったもので解明できないものすべてが、都市伝説だということでもないだろう。
「都市伝説には都市伝説としての意義がある」
 ともいえるのではないだろうか。
 前述の、
「口承される噂話のうち、現代発祥のもので、根拠が曖昧・不明であるもの」
 という定義以外でも、都市伝説としての縛りがあるのかも知れない。
 そう思うと、都市伝説というものが、どこからどこまでをいうのか、実際のラインも、かなりあいまいなのではないかとも思うのだった。
 科学というものの中には、医学というものも含まれているような気がする。
 人間の中にあるもの、いわゆる潜在している意識など、科学、あるいは医学では解明できないものもたくさんあるではないか。何と言っても、
「不治の病」
 というものが存在したり、
「不老不死の薬」
 というものが、存在しなかったりと、
 いわゆる、
「医学の限界」
 というものが存在しているのだ。
 科学の中にも同じように、不可能と考えられ、
「科学の限界」
 と言われるものがあるではないか。
 人間というものは、不可能だと思えるようなものを可能にしてきたではないか。
「いい悪い」
 は別にして、原子力の開発だって、原子爆弾をはじめとする軍事的な化学兵器を、半世紀の間に、相当作り上げ、空を飛ぶことを可能にし、海に潜ることも可能にした。
 時代が時代だったので、すべてが軍事目的に使用されたが、逆に考えて、平和な時代であれば、これほど科学が発展したのかどうかを考えると、実に皮肉なことだといえるのではないだろうか。
 ただ、現代においての、
「科学の限界」
 と言えるものは、そのキーワードは、
「パラドックス」
 と呼ばれるものではないだろうか。
 パラドックスというのは、日本語に訳すると、
「逆説」
 と呼ばれるものである。
 パラドックスと呼ばれるもので、パッと思いつくことといえば、
「タイムパラドックス」
 というものではないか。
 つまり、タイムマシンそのものが、逆説という矛盾に含まれているといえるからだ。
 特に過去に行く場合のことを考えると、その発想は今は皆が周知していることであるが、それは、小説であったり、ドラマや映画などのテーマとして、SFというジャンルの元に、考えられるものだからである。
「SF」
 つまり、
「サイエンスフィクション」
 というものは、空想科学物語と訳されるものであって、あくまでも空想なのだ。
 科学的に証明されていれば、空想などという言葉は使わない。使うとすれば、
「科学的空想物語」
 ということになり、これであれば、
「科学に基づいた架空の話」
 ということになり、非科学的なものとは一線を画しているだろう。
「空想科学物語」
 というのは、科学物語を空想するということで、科学物語自体が、つまり、すべてが空想で出来上がってしまうことになる。
 つまり、科学で証明できないものを、いかに強引に証明しようとすると、空想物語になるという発想であり、科学における矛盾が、物語として面白いものを作り上げるということなのであろう。
 ただ、一般的に、科学はどんどん発達しているのも事実で、昨日まで解明できなかったことを、今日、解明されているかも知れない。
 しかし、その一つを解明、あるいは証明したことで、新たな謎が生まれてきて、
「科学の解明には、限界がない」
 ともいえるのだ。
 しかし、先ほどのように、どうしても科学で解明しようとすると、大きな矛盾のために、そこから先を解明できず、同じところをグルグル回ってしまうような、パラドックスに入り込む、一種の負のスパイラルと言ってもいいだろう。
 負のスパイラルというのは、円ではない、らせん状になっているので、上から見て、同じところを回っているように見えても、それが平面ではなく。渦巻の中心に行くうちに、どんどん下降しているように見える、竜巻のようなものだといってもいいのではないだろうか。
 負のスパイラルというのは、
「交わることのない平行線」
 を、見ているような気がする。
 異次元の世界を見ていく中で、
「メビウスの輪」
 という発想がある。
 一本の帯を一回転ねじらせるようにして、一つの輪を作った時、輪の表面のどちらかに、一本の線を帯の中心を伝って書いていくと、最後には交わってしまうというものである。
 絶対に科学的には、理論的に考えて不可能であることができた時、異次元の世界が開かれるという発想であるが、それこそ、科学的に証明されているのだろうか?
 基本的に異次元の世界を見たことのある人がいないのだから、その証明は無理である。
作品名:都市伝説の自費出版 作家名:森本晃次