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都市伝説の自費出版

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 というものであっただけに、大東亜を認めるということは、自分たちの侵略の事実も認めることとなるので、この名称は危険なものだったのだ。
 そのため、占領期間中は、シナ事変、大東亜戦争などの呼称を自粛させていたのだが、サンフランシスコ講和条約にて、晴れて日本が独立国家となることで、その名称の自粛もなくなったはずなのに、なぜか日本政府はアメリカに譲歩してのことなのか、その名称を使用しないという慣習となり、今でも、
「大東亜戦争」
 と書かれた書物はほとんどない。
「太平洋戦争(大東亜戦争)」
 という名称がかろうじてある程度で、どこまでわが日本という国は、アメリカに譲歩すれば気が済むのかと、言いたくなるのも無理もないことであろう。
 そういう意味で、マスゴミというのは、何とも情けない団体なのであろうか?
 例えば放送禁止用語と呼ばれるものなどは、本来、自粛という程度で、実際には罪に問われることはないのに、たぶん、
「放送倫理に反すること」
 として、使用が禁止され、少しでも苦情があったりすると、過剰に反応して、放送事故のような形で、責任者を簡単に処分したりするという、悪しき伝統のようなものがあったりする。
 考えてみれば、マスゴミというのは、戦前は、世論の言葉に乗せられて、戦争を煽るようなことをしておいて、実際に戦争になると、軍部の威光を組んで、隠ぺいに手を貸したり、国民を欺き続けたのは、いくら、戦争中という非常事態だとはいえ、許されることだったのかということで、戦争責任を叫ぶ一部の人はいるが、それほど一般的に言われているわけではない。
 そういう意味で、情報統制の恐ろしさは分かっているくせに、今の時代でも、マスゴミに踊らされるということは往々にして起こっていることだ。
 下手をすれば、冤罪を生んだり、国家の興亡を握っているかも知れないマスコミの役割を、
「マスゴミとしての役割」
 として、捻じ曲げてしまっているのではないかと思えるのだった。
 一番煽ったり、煽られたりしてはいけないマスゴミは、本当にどこまで信じていいのか分からないというのを、ここ数年の、訳の分からない世界的なパンデミックによって、証明された形になっているのだった。
 歴史的な背景としての現代というのは、昭和二十年から、現在までということになる。
 本来であれば、歴史としての節目はその中にあるのかも知れない。
「いや、もしかすると、今が、その時代の節目のちょうど現在進行形なのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか。
 まあ、時代区分と呼ばれるものは、
「歴史を勉強するうえでの、区分に過ぎないというもので、その発想が違えば、分け方もいろいろである」
 今の歴史認識として、支配政権という意味での区分で考えれば、
「○○時代」
 と呼ばれるものに近くなるだろう。
 しかし、これも中世の終わりまでの話になる。
 近代からこっち、つまり、明治維新からこっちの時代の付け方は、
「天皇が変われば、そこに新しい時代が付く」
 という考え方であり、つまりは、
「元号がそのまま、時代ということになる」
 というものである。
 日本は明治に入ってから、一人の天皇一代一元号ということになったことで、そのような区分になっている、つまり、
「君主の抗体による代始改元」
 ということになるのだ。
 しかし、明治までの改元の理由として、
「吉事や凶事に際してを理由の改元」
 であり、特に多いのは、
「凶事に際して、その影響を断ち切るための災異改元というものである」
 日本における現代は、昭和の途中から、平成、そして令和になってからと、今でちょうど七十五年と少しが経ったということであろうか?
 そういえば、国民の祝日である、二月十一日であるが、この日が何の日だか、正確に答えることができる人がどれだけいるであろうか?
 昔の人、生前から生きている人であれば、
「紀元節」
 と答えるであろう。
 これは、古事記や日本書紀によって記された、初代天皇である、
「神武天皇お曽木いび」
 とされる。
 それが占領軍(GHQ)によって廃止されたのだが、それがしばらくして、国民の祝日の制定の中で、
「建国記念日をいつにするか?」
 ということで議論があったという。
 それで、候補がいくつかあり、
「日本国憲法が施工された日」
 あるいは、
「サンフランシスコ講和条約が締結され、日本の独立が承認された日」
 さらには、
「厩戸皇子(聖徳太子)が憲法十七条を制定した日」
 ひどいものとして、
「終戦記念日」
 を建国記念日として制定案もあったくらいである。
 しかし、結局、紀元節が採用されたわけだが、
「建国されたという事象そのものを記念する日である」
 と解釈できるようにし、名称に、「の」を挿入することで成立した、
「建国記念の日」
 という名称になったのだった。
 つまり、「の」が入る国民の祝日は、基本的に、
「必ずしもその日ではなくてもいい」
 とされているが、この日だけは、二月十一日を政令で定めた日ということで、
「建国をしのび、国を愛する心を養い日」
 ということで、この日が制定されたのだった。
 だから、この日は、
「建国記念日」
 というのが正式ではない、
「建国記念の日」
 というのが正解なのだ。
 ということである。
 考えてみれば、最近の祝日は、
「第二月曜日」
 などという、いわゆる、
「ハッピーマンデー」
 などと称して、祝日を変えるような場合が多い、
「成人の日」
「スポーツの日」
「敬老の日」
「海の日」
 などの日は、日にちを決めることなく、月曜日になるように、毎年日にちが変わってしまうのだ。
 ただ、山の日だけは、本来、お盆にひっかけるつもりだったものが、日航機墜落慰霊日と重なってしまうことで、
「山に墜落した飛行機の犠牲者の慰霊の日に、山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日に合わせるというのは、不謹慎だ」
 ということで、日付を移動させずに、八月十一日固定とされたのだ。
 国民の祝日のうち、「の」が入っている日は、基本的に、日付を変えても構わない日だということになっている。だから、国民の祝日を絡めることで、三連休になるように定めたのだった。
 これは、表面上、
「国民に余暇を楽しんでもらうようにするため」
 などということで決められたが、大体政府が、
「国民のため」
 になど、わざわざ法律を制定してまで行うはずがない。
 結局は。
「祝日を集中させて、国民に金を使わせることで、経済効果を生む」
 という作戦にすぎないのだ。
 経済を動かすことによって、政権の維持を最大の目的とし、しょせん、国民に余暇を楽しんでもらうなどというのは言い訳にしかすぎない。
 政府が、
「国民のため」
 などというのは、
「真っ赤なウソである」
 ということは、パンデミックによって証明されたではないか。
 東京で行われたオリンピック。
「安心安全で、国民の命を守る」
 とか言って、結局強行し、医療崩壊まで起こした責任は政府にあった。
 しかも、最悪の医療状態になると、今度は政府が言った言葉は、
作品名:都市伝説の自費出版 作家名:森本晃次