都市伝説の自費出版
と呼ばれた台風によって、撃退することができたのだが、実際にこの戦争は防衛戦争であり、国家の滅亡には至らなかったが、新たな土地を得たわけではない。
そのため、借金をしてでも兵を出した御家人に、恩賞である土地が与えられることはなかった。そうなると、幕府に対する不満は爆発し、それが倒幕へと時代は流れていくのだった。
その後に起こった室町幕府であるが、三代将軍義満くらいまでは、幕府の全盛期であったが、その後は、グダグダになってしまった。
何しろ十五代の幕府の将軍で、
「くじ引きで決まった将軍」
というものがいたり、
「暗殺された将軍」
というのが二人もいたりと、とんでもない時代だった。
八代将軍の義政の時代には、有力守護大名の権力争いと、将軍家の次期将軍後継問題とが絡み合って、天かを東西に分けての、大戦さが始まった。
それが、いわゆる、
「応仁の乱」
と呼ばれるもので、十一年に渡って、京都を舞台に起こった戦争であり、すっかり京都は廃墟となってしまった。
それが、一因となって、幕府の権威は地に落ちてしまい、それ以降、守護大名が戦国大名に変わったり、下の身分の武士が領主に取って変わるクーデターを起こすことで、
「下剋上」
というものが起こり、下剋上を起こしたものが、戦国大名という形になるものが出てきて、それ以降が、
「群雄割拠が乱立する戦国時代」
へと入っていくのだった。
ちなみにいうと、本来の封建制度と呼ばれるものの確立は、
「織豊時代」
つまりは、織田信長と、豊臣秀吉によって作られたものだと言われているようだ。
織田信長による。
「楽市楽座」
の、自由商業の考え方であったり、
豊臣秀吉による、いわゆる、
「太閤検地」
にとって、土地と所有者を明確にすることで、そこから摂れる穀物をいかに年貢として納めるかであったり、兵役の考え方というのが、いわゆる、
「石高制」
と呼ばれるもので、そこから軍役まで決めたということなので、石高というのが、論功行賞において、石高の多い領地をもらった大名が、強いと言われるのも、当然のごとくだといっていいだろう。
「五十万石の大名」
などと言われるのはそのことであり、当然国土の広さよりも石高になるので、
「米どころ」
を地盤とする大名が当然強いというのは当たり前のことであろう。
そういう意味で、
「本当の封建制度は、安土桃山時代より以降だ」
という説もあるくらいである。
ただ、そうなると、中世という考えは、封建制度というよりも、武家政権という方に重きが置かれることになるが、基本的には、鎌倉、室町時代であっても、封建的な考え方に変わりはなかったので、封建時代というのは、やはり広義の意味での、
「武家政権と同じ」
と言ってもいいだろう。
また、江戸時代に入ると、今度は戦乱の世が終わり、日本は天下泰平の時代に入り、いわゆる、
「幕藩政治」
というものが確立した。
戦国時代の名残からか、かつての戦国大名が、各藩を形成し、その藩を収めるのが、大名ということになる。
基本的には中央集権ではなく、封建制度の基本であった、、御恩と奉公の関係を、幕府(将軍)と各藩(大名)との間での関係なのである。
そういう意味で、
「江戸時代というのが、封建制度の集大成」
と言ってもいいだろう。
しかも、その時代になると、キリスト教伝来から続く、キリシタン弾圧の問題が、三代将軍家光の時代に、国家体制としての、「鎖国」というものを行うに至った。
そもそも、キリスト教の布教というのは、西洋諸国が、植民地獲得のために、キリシタンの布教という名目で、宣教師を送り込み、彼らの特務機関のような内部工作によって、内乱を起こさせ、そこに便乗して、攻撃することで、武力を持って、その国を植民地にするというやり方が横行していた。
東南アジア各国がその手で次々に植民地化されていき、タイや中国を除くほとんどの国が、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどの国の植民地になっていった。
その背景には大航海時代があり、アメリカ大陸などは、スペインやポルトガルなどによって植民地化されていったのだ。
鎖国が封建制度において、大きな意味を持つというのは、封建時代、つまり中世の終わりがどこなのかということへの議論に大いに結びついてくる。
つまりは、日本を武力開国させようと、軍艦(黒船)で来航してきたペリー提督による、いわゆる「砲艦外交」により、開国させられたことにより、国内の混乱、
「尊王攘夷」
という問題が起こってきたのだ。
まずは、外国を追い払うという、攘夷派が台頭していたが、そのうちに、外国にはかなわないと見た長州や薩摩などの諸藩による倒幕運動が盛んになり、
「天皇中心の中央集権国家を作ることによって、外国の脅威から日本を守る」
という考えが主流になっていき、戊辰戦争を経て、日本は、明治維新へと進んでいくことになるのだった。
中世というのが、開国までなのか、それとも、明治政府の成立までなのか、議論は今も続いているのだった。
ここからが、近代(近世)となるのだが、この時代の基本的なワードとして、
「資本主義」
ということになる。
資本主義というものの概念としては、
「国政によってよりも営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業が制御(コントロール)されている、経済的・政治的システム?」
と言われている。
反対語として、共産主義というものがあるが、社会主義というものは、基本的に、この資本主義の限界を考えて作られた考え方だといえるだろう。
社会主義は、資本主義の限界である、
「貧富の差」
というものをなくすという意味で、経済的な格差を生む資本主義の基本的な考え方である、
「自由な競争」
を否定し、
「国家が、その利益を皆で共有する、つまりは、国家が経済を管理する」
という考え方である。
そのために、自由な企業間での競争などなく、すべてが国営ということになるのが、基本的な社会主義の考え方である。
一見、理想的な社会のように感じるが、経済的にだけではなく、政治的にも自由というものがなくなり、独裁政治へと向けられるものとして発展してくる。その延長線上に共産主義があり、その体制を守るために、国家が国民を支配し、一つの政党、あるいは個人が、君臨するという形になり、言論や出版の自由などもなく、君主に逆らう者を、粛清するということになり、国家が閉鎖的になり、孤立するということになりかねない。
そのため、今では社会主義の国というと、中国、ベトナム、キューバなどの限られた国にしか存在しないということになるのだ。
近代というのは、そういう意味での資本主義と民主主義によって形づけられた世界となる。ただ、その中でも、日本の場合は、立憲君主国という国家体制が、
「近代における日本だ」
ということができるだろう。
日本が開国することによって、日本が目指す道は、
「欧米列強と肩を並べる国になる」
ということが基本だった。
そのために、
「富国強兵と殖産興業」
というスローガンが生まれた。