都市伝説の自費出版
「確かに、夢のような話というのは自分の中で作ろうとした妄想なのかも知れないって思うんだけど、まさしくその通りかも知れないと思うの。でも、思い出そうとした瞬間、思い出せなくなってしまうというのは、ひょっとすると、自分の中で思い出したくないという感覚であったり、思い出すとロクなことはないとい思いだったりするのかも知れないって感じるの」
と、ひまりは言った。
「私だって、似たようなことを感じることもあるわ。だけど、きっと私が今感じているのは、ひまりとは少し違うと思うのよ。奇抜なことであればあるほど、似たようなことを感じたとすれば、それは、原点となるものは、元がまったく違っているものではないかと感じるのは、私の思い違いからきているものなのかも知れないわね」
と、六花がいうのだった。
六花が、こういう落ち着いた言い方をする時というのは、ゾッとするほど、その言葉に信憑性を感じるのだ。
この信憑性があるからこそ、余計に六花が言っていることが、説得力も信憑性もあることに感じるのよ」
というのだった。
ひまりは、以前、似たような続編がある話を、小説として読んだことがあった。
最初に書いたものが、人気が出たので、後から続編という形で出てきたのだが、
「やっぱり、最初の話から見れば、だいぶ落ちるわね」
ということであった。
「何をするにしても、最初が一番で、それ以降は、どんどン飽きられてくるものであり、何よりも本人が飽きてくるのではないだるおか?」
と感じるのであった。
ひまりは、自分で小説を書いたことがないので、
「続編というのは、どういう心境で書くことになるんだろうか?」
と自分が作家になったつもりで考えたことがあった。
「最初から、続編ありきで考えていないと、書けないような気がする」
と思ったのだが、それは、アイデアは頭に浮かんでも、イメージとしての、作品の配分というものが頭の中で混乱してくるのではないかと思うのだった。
文章というのは、起承転結で成り立っているということくらいは知っている。もちろん、すべてがないと文章として成り立たないというわけではないが、実際に書く量から考えて、最初にいろいろ書きすぎると、続編にでもしないと、尻すぼみで終わってしまうのではないだろうか。
だったら、起承転結の転の前までを今回書いておいて、それ以降を続編として出せばいいということである。
しかし、
「じゃあ、続編はいつのタイミングで出せばいいのか?」
ということになる。
あまり遅らせると、読者は前編の話から興味が薄れてしまったり、前編の内容を覚えていなかったりすることもあるのではないだろうか。
それを思うと、あまり遅いのもダメである。
では、早い方はどうであろう?
あまり早いと、
「こんなに早く続編って、じゃあ、最初から続編は分かっていたんだ」
ということで、読者によっては、白けてしまう人もいるだろう。
さらに、あまりにも早いと、前編の効果を余韻として残すことで、後編を読みたいと思うタイミングよりも早くなることで、読者の気持ちの高ぶっている時に、起こす時期尚早なことでしかないと思わせるのだった。
読者がそう思うと、筆者の策略のようなものが妄想できてしまうことになり、読者は、興味を失うかも知れない。
そんなことを考えていると、
「続編を書く予定にする小説というのは、続編をいつ出すかということが一番の問題なのだろう」
と思わせる。
その話を六花に話すと、
「なかなか面白い意見ね。確かにそれはあると思うわね。早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ、そんな中で、ちょうど、読者が欲するタイミングがいつなのかということまで見ないと、あざとい読者には、作者の考えなど見透かされてしまうことだってあるんだって、私は思うわ:
と言った。
「そうなんだよね、どのタイミングが一番読者の望んでいるタイミングなのかと思うと難しくて」
というと、
「そんなことはないと思うわよ。だって、正解なんてないんだから。つまり作者が、このタイミングが一番だと思ったタイミングで出せばいいだけのことなのよ。素人が下手に考えすぎると、読者にあざとさが見透かされてしまって、結局、どの場面で出しても、あざといとしか思われなくなってしまう。つまり、読者に自分の作品も、自分自身も飽きられてしまうということになるのよ」
と六花はいうのだった。
「なるほど、そうかも知れないわ。特に続編を書く小説というのは、最初の話が面白かったから出るわけで、たぶん、一定の結論が出るから、続編という話が出てくるのよね。それをうまく見切ることができないと、本当は作品と見比べてのタイミングだということを、忘れてしまうんではないかと思うのよね」
と、ひまりは言った。
だが、ひまりは、その時の続編が気になってた。本当に出たのかどうか、そしてそれを自分が読んだのかどうかということである。
ひまりが感じているのは、
「続編は出されていて、そして、それを自分が読んだ」
という意識である。
もし、続編も出なかったり、出ても、読んでいなかったりすれば、心のどこかでそのことが気になっていて、忘れていたとしても、思い出した時、
「続編を読んでいない」
という感情に襲われるに違いなかったからだ。
しかし、その小説をことを思い出した今回、
「実際に読んだのだろうか?」
と感じた程度だとすれば、きっと読んだに違いないと思うのだ。
確信があるわけではないし、信憑性もない。だが、消去法で考えると、それしかないと思えるのであれば、その通りなのだろう。
考えてみれば今の時代、消去法で決めることが多すぎる。
時に選挙などがあればいつも感じること、特に国政選挙などになるとそうである。
この間あった国政選挙では、一番どこに入れればいいのかということが問題だった。
政権与党に入れてしまうと、国民の命を守るという口だけの首相になってしまうからだった。
かと言って、野党第一党はもっとひどい。
「口を開けば、政府の批判ばかり。そして、法案に反対するなら、代替え案を出してこそのものなのに、批判するだけで、代替え案など出しても来ない」
というのが、野党第一党である。
しかも、やつらは実際に、
「案はないのか?」
と詰められると、出し惜しみしていたかのように、出してくる。
実際に出し惜しみではないかと思わせるのだ。
最初から質問されることを予期していないとできないような法案を隠し持っている。
「法案を出せと言われて、即席で作ったようなものではなく、見た目は理路整然としていて、立派なものである」
と言えるのではないか。
つまりは、まわりを見ながら、相手を責めるという、姑息なことをする政党なのだ。
きっとその方が、インパクトがあるとでも思っているのか、ここまで姑息だと、法案どうのというよりも、人間性という意味で、とてもではないが、政権を任せることなどできないと思われても仕方がないだろう。
国民がどこまでそのことを意識しているのかは分からないが、野党第一党のその党は、きっと国民を舐めているのだろう。