都市伝説の自費出版
母親としては、自費出版社系の会社に恨みを持っているので、
「利用できるものはいくらでも利用する」
という考えを持っていた。
それだけに、いくらでも利用しようと思っていて、まわりの友達にも宣伝していた。
「あそこは、穴場な喫茶店ですよ」
とである。
母親としても、そう簡単に潰れられるのも困ると思っていた。
こんな便利な場所は今までにはなかったので、これで終わりになると、あとはなかなかこんな店が出てこないのは分かっていたからだ。
今でこそ、
「ノマドスペース」
などと言って、作業場を提供するオフィスや、喫茶店のようなものが出てはきたが、なかなかこのような場所はなかった。
フリーランスなどが増えてきたという要因でのノマドスペースなので、当時とは趣旨という意味で、少し違っていたからである。
「ノマド」
というのは、遊牧民とかいう意味で、
「仕事場を決めずに、いろいろなところで活動する人のためのスペース」
ということである。
まさに、その言葉の通りの場所が、自費出版社が時代を先取りして作っていたのだった。
そういう意味では、すべてがよくなかったわけではない。ただ、あまりにも詐欺行為がひどかったことと、それを誰も疑わずに信じて、大金をはたいてまで、本を出す人がいるということである。
確かに、詐欺には違いないが、普通に、
「金を騙し取る」
というだけのものではなかったことも特徴だった。
人によっては、
「自分の本を出すというのが目的で、そりゃあ、確かに遊泳書店に並んだり、万が一売れでもすれば、こんなに嬉しいことはないけど、自分の本を出せるというだけで嬉しいと思う人も若干名はいたかも知れない。何と言っても、自分の本が世に残るのだから」
という人もいただろう。
しかし、最後にはそんな優しい人たちの気持ちを裏切ったのも事実だった。
本来なら、自分もお金を出しているのだから、会社が破綻した時、在庫を処分するという意味でも、著者にすべてを返すくらいのことをしてもいいのに、何と、
「七掛けで買ってくれ」
というのだ。
さすがにこれには怒りをあらわにした人も多いだろう。そもそも、破綻したのは、こちらの責任ではない。会社の自転車操業と詐欺行為が引き起こしたことなのだ。それを定価千年のものを、七百円として、在庫を引き取らせようとしたのだ。これは悪徳と言われても仕方がない。このあたりが、社会問題としてクローズアップされることになったのだろう。
それを思うと、いかに最初から無理なことだったのかということを、証明しているような気がするのだ。
そんな自費出版の会社の本が、なぜ自分の部屋の隅から見つかったのか、最初は分からなかった。
しかし、その見つかった本は、その本を買った時、気になったから買ったに相違ないはずだ。
だが、どんな心境だったのかなど、覚えているはずもない。
当時の出版社は、結構似たような名前のところがあったので、どれがどこだったのか、ハッキリと分からないくらいである。
母親は実際に原稿を送っていたのだから分かっているだろう。しかし、今さら過去のことを思い出させるのも気の毒で、触れないようにしていた。
ひまりは、中学時代か高校時代のどこかで、都市伝説というものに、興味を持った時期があった。
ただ、怖がりなところがあるので、恐怖系の都市伝説には近寄りたくはなかった。
こっくりさんなどは特に典型であり、誰かが話を始めると、
「きゃっ、嫌だわ」
と言って、耳を塞ごうとするが、面白がってまわりは余計に話をしてくる。中学生くらいであれば、よく見る光景だったのかも知れない。
だが、今回見つかった、
「小田原評定」
の本は、そこまで怖くはない。
だが逆に、
「そんな印象にも残っていないような本を、私がわざわざ買ったりするだろうか?」
と感じたのだ。
その本のどこかに、何かを感じるものがあって、それでこの本を手にして買うことになったはずなのだ。
それが何だったのか、今では覚えているということもない。
ただ、
「小田原評定」
という言葉は印象的だった。
籠城している時に、いつ攻められるとも分からない場面で、先の見えない、不毛な会議を続けるということを考えると、他人事のように見ているのが、何か怖い気がした。
「彼らは一体、怖くはなかったのだろうか?」
とも思ったが、怖いと思ってしまうと、思考能力がマヒしてしまい、考えれば考えるほど、考えがまとまらなくなるのではないかと感じるのだった。
それを思うと、その本を今見つけたというのは、そこに何か暗示のようなものがあるのかも知れない。
「自費出版社のことを思い出していた最中だというのも、因縁のようなものを感じる気がする」
というものであった。
続きのある話
さらに部屋を掃除していると、もう一つ、自費出版社系の小説が出てきた。
その話は、後から読んでも、
「何に、自分が興味を持ったのだろう?」
という程度のもので、自分が何を気にしてその本を購入したのか、ハッキリと分からなかった。
ただ一つだけ気になったのが、
「その話には、最後結末がない」
ということであった。
だから、最後に、
「この小説は、一旦ここで終わりますが、読者の方には、どこかもやもやしたものが残っておられることでしょう。ひょっとすると、続編が出るかも知れませんが、それが本当に出るかどうか、作者である自分にもわかりません」
ということであった。
その文章を読んで。
「ここが気になったのだろうか?」
と思ったが、それよりも、以前にも似たような作品を見たことがあった。
それが、母親の作品で、内容はまったく違うものだったのだが、母も、同じように、
「続編が出るかも知れない」
と書いていた。
だが、母は結局その話の続編を書いたかどうか分からない。一度以前に、
「前に書いていた続編が出るかもって言っていた作品の続編というのは、書いてみたのかな?」
と聞いてみると、
「えっ、私そんな話書いたかしら?」
ととぼけられた。
だが、母の様子を見ていると、
「本当に忘れていたのかも知れない」
と感じるほどであった。
だが、それを聞いた瞬間、ひまりも、その作品がどんな作品だったのかということをすっかり忘れていた。
そのことを、六花に話すと、
「度忘れというものなんじゃないの? もう一度その本を読み返してみればいいんじゃない?」
と言われて、家に帰って本を探したのだがどこからも見つけることができなかった。
実際に、どんな本だったのかということを思い出そうとしても思い出せない。そして、読んだはずの本を探そうとしても出てこない。まるで、煙のように消えてしまったかのようである。
また、それを六花に話すと。
「それって、本当のことなの? 何か他に類することがあって、自分の意識が勝手に作り出した話なのかも知れない。他の本で似たようなものがあったんじゃない?」
と言われたが、その時は分からなかったが、今その思いを感じているような気がする。