都市伝説の自費出版
小説家というものが、どういうものなのか。新人賞を取って表彰されても、プロとして生き残っている作家はさらに一部である。中には、
「デビュー作で、すべてを出し切ってしまった」
ということで、それ以降の作品が書けなくなったり、書き続けることの辛さを感じてしまったりと、なかなか作家として、気力が続かない人もいるに違いない。
それだけ達成感が、燃え尽き症候群となってしまうということでもあるのだろう。
また、最終選考にでも残らなければ、自分の作品がどれほどのものなのかということを理解することはできない。
入賞できるかできないかということくらいしか分からず、自分の実力が分からない。
それはそうであろう、批評とできる専門家というのは、最終選考でしか出てこないから、人の作品について批評できる人間が見ているわけではないということの証拠でもあるのだろう。
しかも、
「選考に関してのお問い合わせには、一切お答えできません」
と。たいていの文学賞では歌っている。これは今も同じことであり、審査に関しては非公式で、どこまでが真剣なのか、分かったものでもないだろう。
そんなことを考えると、
「作家になるというのも、運不運があるんだな」
と考えさせられる。
しかも、運不運でなった人であれば、元々実力もあるわけではないので、なってから先が本当の生き残りなのに、まるで、武器を持たない人間を、獰猛なライオンやトラの檻に入れるのも同様である。
そんな状態で、生き残れるわけもない。だから、新人層に入賞できても、そこから先、皆生き残れないのではないだろうか。
そんな状態の不透明な作家への門。そこに表面上、メスを入れようとしてくれたのが、いわゆる、
「自費出版社計」
の出版社の出現であった。
昔から、自費出版というものはあった。
「別にプロにならなくてもいいから、自分のお金で製本し、それを友達に渡すという、一種の思い出作りのようなもの」
としての自費出版である。
数十冊くらいなので、かかっても、十万か二十万くらいのものなので、昔であれば、お小遣い程度の感覚で出すこともできる。
「老後の記念」
ということで、退職金の一部を充てることだってできるだろう。
何しろ中古車を買うよりも安い値段で、趣味の集大成ができるのだから、プロになるわけではない素人の発刊という意味では、ちょうどいいのだろう。
だが、世の中、
「何か趣味を持たなければいけない」
と言われる時代になると、筆記用具かパソコンかワープロさえあればできる小説執筆という趣味は、それまでに比べて、爆発的な人気が出てきた。
「人間、生きていれば、自分史を書くとしても、三百ページの本くらいのものは皆書けるはずだ」
と言われてきたので、実際にその言葉を信じている人も多いことだろう。
しかし、なかなか小説を書くということはハードルが高いものだ。それでも、何かお金のかからない趣味をするということになると、小説執筆は人気になってきた。
それまでまったく何も書いたこともなく、文章体裁すら知らないような人が、
「私だって小説家になれるかも知れない」
などと思うと、どこか自惚れてしまう人もいるだろう。そうなると、もし、簡単に新人賞に応募できる機会がたくさんあり、あるいは、原稿をいくらでも、読んでくれるという会社があれば、飛びつくのは当たり前というものだ。
それが、自費出版社系の会社であり、それまでのブラックやグレーな部分を、すべて明らかなものにすると言われれば、誰もが送ってみたくなるというものだ。
通信講座であったり、東京近郊であれば、
「小説講座」
なるサブカルチャーの学校もあるだろうが、それにも結構お金がかかる。
半年で十万近くかかるところもあったりして、マンツーマンで教えてくれるわけでもなく、書いた作品を添削してくれるくらいであった。
そもそも、それだけでプロになれるのであれば、プロは過密状態になることだろう。それこそ、胡散臭いというものだ。
プロ作家の数が決まっているのだとすれば、アマチュア作家の人数が爆発的に増えれば、そこからプロになれる確率はグーンと下がるというものだ。
しかし、実際にはアマチュア作家のほとんどは、最近、その気になっただけのアマチュアにも手が届いていない連中がほとんどなのだ。そういう意味では、本当にプロを目指そうとしている人たちがライバル意識を燃やす相手というのは、昭和の頃と少しも変わっていないといってもいいだろう。
にわかというものが、どれほど甘いものなのかということであり。そんな連中が詐欺に引っかかったり、ちょっとしたことで挫折し、目指していたものを簡単に手放すのだ。
「そんなことであれば、最初から目指さなければいいのに」
と思う。
それこそ、時間の無駄なのだ。
小田原評定
だが、どうしても、最初は趣味のつもりで書いていて、
「原稿をお送りください」
などと書かれていたら、
「ちょっと送ってみようか?」
ということになるだろう。
すると、添削まではしてくれないが、パソコンでA4用紙三枚くらいに、作品の批評を書いた紙が送り返されてくるのだ。
その内容は、最初に残念なところを書いておいて、その後で、いいところを書くという手法で、
「落としておいて、おだて直す」
という、相手が一番信じやすい心理状態に持っていくのだ。
誉め言葉しか書いていなかったら、さすがに素人の作品なので、何か胡散臭いと思うだろう。
しかし、誉め言葉の前に残念なところという形で書かれていれば、一気にテンションが上がってしまい。相手の思うつぼに嵌ってしまう。
そうしておいて、相手は、
「見積もってみました」
とばかりに、
「あなたの作品は、いい作品ではありますが、当社が全額負担というリスクを背負えるまでの作品ではないので、今回は、こちらから、協力出版の形をご提案します」
と、前書きが書かれているのだ。
協力出版というのは、
「出版社と作者が共同でお金を出し合って、作品提供は作者が、発行までのすべての工程を出版社が行う」
というものである。
有名書店に一定期間置くという触れ込みで、見積もりを出す。しかし、それを見た瞬間、「これは詐欺だ」
とどうして誰も思わないのだろうか?
それに気づいたのは、ひまりの母親だった。相手は、
「一冊千円を定価として、千冊印刷する」
というのである。
その時に発生した値段、つまりは総額で百万円を分けることになるはずなのに、作者に、百五十万の出費を吹っかけてくるのだ。どう考えてもおかしい。文句をいうと、
「本屋においてもらうためのお金です」
という宣伝費のようなものだというが、こちらも、さすがに腹が立って、
「何言ってるんですか。定価というのは、それらの経費をすべて含んだうえで、そこから利益分を加えたものになるのが普通じゃないですか。だから、こっちが百五十万の出費で半額だというのであれば、定価は三千円以上でないと計算が合いませんよね?」
といきり立っていうと、相手はぐうの音も出ないのか、反論できないようだった。