都市伝説の自費出版
そんなバブルの時期とは違い、趣味を持たなければ、時間を持て余してしまうという状況になってきた。
ただ、この時間を持て余すことも、甘く考えてはいけない。
時間だけあって、お金がないという状況は、それまでとまったく違うのだ。
お金は入ってくるが、忙しくて、使う暇がないというのが、バブルの時代だった。
この頃は忙しくても、それなりに達成感があり、その達成感の具現化が、お金ということになるのだから、充実もしている分、いい時間だったに違いない。
しかし、時間だけあって、お金がないと、何をしようにもすることがなく、不安ばかりが募ってしまい、どうしようもない状態になるのだった。
それが、バブル後の時代だった。だからこそ、
「お金のかからない趣味」
を見つけるということは、その人にとっての死活問題でもあるといえるだろう。
本屋にいけば、
「余暇の楽しみ方」
などという本も置いてあったりした。
だが、自分に向いた趣味がどこにあるのか、それまでまったく考えたことがなかっただけに、思い浮かぶわけもない。
逆に、今まで仕事が忙しく、何かの趣味をしたいのを我慢していた人は、したいことがすぐに見つかるだろうし、それまでのたくわえで、それほどの不安を感じていない人もいあるだろう。
そういう人はまったく不安はないというわけではないが、趣味をこなしながらでも、何とか生きるということを考えているので、どっちを向いても地獄しか見えない人に比べれば、マシなのではないだろうか。
そして、そんな時代にたくましく生きようとする企業や業界もあった。スポーツジムなどは、余暇ができた人に、
「これまでの無理を少しでも癒すためと、これからの健康のため」
ということで、スポーツセンターの需要が上がると見て、結構いろいろなところにできたりした。
会員だけの利用ではなく、一日だけの利用者も募るようにして、たくさんの人に開放することで、門戸を開いたのだ。
また、それまでの無理が祟った仕事で痛めつけられた身体をいかに癒すかということで、
「リラくぜージョン」
などという業界が、マッサージから派生する形で流行ってきた。
そのモットーは、
「癒し」
であり、その空間には癒し効果のあるアロマによる芳香剤であったり、岩盤浴などと絡めた施術であったりと、結構、人気だったりする。
金瀬的にもリーズナブルだったのではないだろうか。今でも結構そういう店は残っているが、ある意味、ブームの再来なのかも知れない。
ブームというのは、数年に一度の周期で再来するというが、リラクに限らず、他にもたくさんあるのではないだろうか。
そんな趣味を煽る企業の中には、詐欺商法を基本とした業界もあった。
それまでの不便なところや、不満に感じていたことを解消してくれるそのやり方に感動し、まんまと騙された人も相当数いたはずだ。
最後には、複数の裁判沙汰となり、社会問題となって消えていった。
「自費出版系」
という会社であった。
世の中には。
「本を書きたい」
と思っているが、そんなに簡単なものではないということで、心の中で願うだけで、努力をしてみようと考える人は少なかっただろう。
それには、それまでの、
「作家になるための方法」
というのが、あまりにも曖昧だったということが一番の原因ではないだろうか。
昔、つまり、昭和の頃までの小説家になるための方法としては、ほとんど決まっていた。
一つは、数少ない出版社系の文学賞か、新人賞に入選して、次回作をヒットさせるという方法。もう一つは、直接、原稿を出版社に持っていき、手渡しで読んでもらおうとお願いするやり方だ。
最初の文学賞であるが、これは今ほど、たくさんの文学賞があったわけではない。有名な出版社が、数社、年に一度か二度くらいの割合で応募しているくらいだった。
今でこそ、毎月いくつもの文芸を公募している時代になったが、昔は本当に少なかった。
それだけ、小説家を目指す人も少なかったのだろう。
しかも、それらの出版社の文学賞は、応募の雑誌には、数名の有名作家の写真が載っていて、審査委員と書かれているが、実際に読まれるのは、最終選考まで残った作品だけである。多くて、五作品ほどが残るだけだ。数百の公募の中からである。
ほとんどが、一次審査、二次審査。そして最終選考という形になるのだろうが、一次審査というのは、基本的に原稿を見るのは、
「売れない作家たち」
なのだ。
つまり、一次審査というのは、作品の良し悪しで審査するわけではない。
「いかに文章として体裁が取れているか?」
というだけのことである。
どんなにいい作品であっても、文章の体裁が整っていなければ、落選させられる。
何といっても、審査する相応の人間ではない、売れない作家が審査するのだから、たとえちゃんと中身を審査したとしても、どこまでの見る目があるのか、怪しいものである。
彼らは、
「下読みのプロ」
と呼ばれ、一種の兵隊なのだ。
何といっても、数百もの応募作品、どれだけの人間が下読みのプロなのか分からないが、一人で数十作品読むとすれば、それだけでも大変だ。
そう考えれば、雑誌に載っている応募コーナーの作家の先生が、すべての作品に目を通して真剣に審査するなど、できるはずもない。
どんなに見る目のある人であっても、一気に数百もの作品を読めば、最初の頃に読んだ作品を覚えているわけもない。数作品を審査するだけで限界のはずである。
それを思えば、自分の作品がプロの作家に見てもらえるようになるまでに、ハードルが高く、しかも、そのハードルをどれだけの見る目がある人が審査するのか分かったものではないだけに、新人賞の選考というのも、どこまでがあてになるものなのか、分かったものではない。
また、後者の実際に自分から原稿を持って行って、
「営業する」
ということであるが、まず見てもらえるわけはないのだ。
毎日のように、持ち込みの人が何人も訪れる、出版社も既存の作家をいくつも抱えていて、どのように編集するかということで日々頭を悩ませているので、何を好き好んで、素人の作品を見なければいけないかというものである。
プロの作家が、新しい作品を書いたといって持ってくることもない。基本的に小説を書いて出版するというのは、作家がまず企画を持ってきて、それを元に、編集会議で、それが認められれば、やっと作家はプロットに取り掛かれる。そして、本文を書き始めれば、あとは締め切りに追われる毎日だということになる。
それなのに、素人が原稿を持って行って、それを見てもらえるはずがない。別に出版社の編集長は、
「新人発掘が仕事」
というわけではないのだ。
だから、持ち込んだ人が帰れば、あとはゴミ箱にポイである。
ちょっと考えれば、新人賞の選考にしても、持ち込み原稿にしても、この仕組みは分かりそうなことなのに、どうして分からないのかというと、
「まさか、そんなことはないだろう」
という思いが先に来ることで、最悪で悲惨なことを考えたくないという思いが無意識に働いているのかも知れない。