都市伝説の自費出版
それだけ、自転も公転も、人間の身体の心臓が、ずっと定期的に動き続けるように、寸分たがわずに、ルーティンとして成り立っているということであろう。
そう考えてみると、月食の前と後ろの月が、これ以上ないというくらいに、きれいな満月であるというのは当たり前のことである。
そもそも、月を隠す太陽は、月食の前ということで、その瞬間、太陽の影響をまったく受けていない。後ろにしてもそうなのだが、そう考えると、満月であるのは当たり前のことだ。
もっといえば、月食というものが珍しいものだというだけのことであり、偶然である月食が重ならなかったら、
「ただの満月の月齢の期間だ」
というだけのことである。
しかも、太陽の光をまともに受けている月が反射しているのだから、月食の前と後ろが、名月と言われるほどきれいであるということは、当然のことである。
ちょっと考えれば分かるようなことであるが、それを人間は考えようとしない。
ただ、それを怠慢だといえるだろうか。
「世の中には、知らなくてもいいことがたくさんある」
と言われている。
確かに、
「知らぬが仏」
という言葉のように知らなければ、それに越したことはないことも多いだろう。
この場合をそうだと思っている人もいるはずだ。なぜなら、
「せっかくの夢のある月食を、科学で解明してしまって、気持ちが冷めるのは、果たしていいことなのだろうか?」
ということである。
昔から、日食や月食が起きた時、それを儀式として、霊媒であったり、祈祷であったりして、その時の世俗に対しての祈りを捧げている人も多かったことだろう。
ただ、もう一つ考えれば、最初から用意ができているわけなので、科学的に、
「月食が来る。日食になる」
というたぐいのことは、科学的に予知できたということである。
そうなると、理屈も分かっていなければできないことで、その理屈を分かったうえで、祈祷や霊媒を行っているのだ。
日食や月食の短時間を、起こってから用意しても、とてもではないが、間に合うわけはないのだ。
「自然の神秘こそが、偶然ではなくとも、いや、必然だからこそ、我々人間に、大いなる影響を与えているのかも知れない」
と思った。
そもそも、偶然が必然よりも神秘的だと誰が決めたのだろう? あくまでも、勝手な思い込みに違いないのだ。
自費出版系の会社
ひまりが大学に入学したのは、まだ平成だったが、すでに、改元は分かっていたことだった。だから、今のひまりは三年生で、二十歳を超えていた。成人となっていたのだった。
令和四年からは、成人の年齢が引き下げられることになる。考えてみれば、
「そうなると、令和三年での十八歳の人は、成人式がどうなるのだろうか?」
ということである。
令和三年で二十歳の人はすでに済んでいる。十九歳の人は、一月には、まだ前のままなので、成人式を受けられる。しかし、十八歳の人は、令和四年になるので、その時は十九歳である。そうなると、二十歳でも受けることができない。すでに令和四年ではすでに十九歳になっているので、成人年齢に達している。
ということは、
「令和四年の成人式では、十八歳と十九歳を合同で行うのか。それとも、日をずらすのか、それとも、十九歳の人は気の毒だが、成人式をしないのか?」
どれになるのか、分からない。
ただ、一つ言えることは、
「そもそも成人式というのは、自治体によって違っている。つまりは、市町村ごとに年齢も違っているということだ。つまりは、二十歳にならないとやらない自治体の隣の自治体は、十九歳でも行う。あるいは、過疎地や、離島などの遠隔地の場合は、帰省もままならないということで、夏休みに絡めたりするところもあったりするくらいだ」
ということである。
つまりは、もし、対象年齢で引っ越したりすれば、
「成人式に二回出れる人もいれば、一度も呼ばれない人もいるということで、不公平が生じる」
ということである。
それを思うと、今回の法改正でも自治体によって、それぞれが考えることになるだろう。それが一番平和な気もするし、その理由は、そもそも、自治体によって違うがあるのだから、そうしないと、余計に混乱するからに違いない。
その問題は、パンデミックが発生した時、ワクチン接種が全国的に広まった時期があったが、それも、自治体によってやり方がまったく違い、隣の市では、一回目の予約の時に、二回目が決まっているが、自分のところは、一回目の接種が終わった時点で、二回目の接種を行うというものであったり、さらに、摂取会場も、病院でできるところもあれば、大規模摂取場でしか接種できないなどというところもあった。
もちろん、人口の問題、場所の問題からいろいろあるのだろうが、摂取準もバラバラで、年齢に伴って予約ができるところと、年齢関係なくできるところもあったりした。
これには、一長一短があり、
「共通でやろうとすると、その取り決めのためにかなり時間がかかり、実際に摂取するまでにかなり遅れが生じるということだ。しかし、自治体ごとであれば、それぞれに早いところ遅いところは出るだろうが、自分たちに合う独自の方法が出てくるだろう」
と考えられる。
「しかし、自治体ごとにやると、隣の自治体との差が激しく、市の境にいる人は、隣人はとっくに摂取できているのに、自分たちはまったくということもあるだろう。それが、差別化というものではないか」
ということである。
これは、考え方によっては、
「民主主義と社会主義に似ている」
のかも知れない。
「民主主義は自治体ごとに、その制度が独立していて、自由であるが、貧富の差が激しい。差別化が悪い意味でされているということになる」
しかし、社会主義は、
「国家がすべてを決め、すべてが国有なので、儲けは皆に同じように分配をすることになるが、いくら頑張っても、給料が上がらないということであれば、モチベーションはがた落ちである。それを考えると、発展性はまったくない。ただ、皆平等なので、貧富の差はない。ただし、全員が貧困だということは大いにありうる。本来なら貧困になることはないはずの人まで貧困にあえぐことになるというのも、社会主義の欠点ではないだろうか?」
政治体制が、このような中央集権か、地方分権か? ということに絡んでくると思うと、結構面白く見えてくるのである。
しかし、実際に自治体に任せると、かなり混乱した。一番懸念された自治体によっての差が顕著に表れ、さらに混乱を助長したということもあるだろう。
これを見ていると、
「これが、民主主義の限界なのか?」
とも考えさせられる。
「個々のモチベーションによる競争意識か。それとも、貧富の差をなくし、ある程度社会が国民生活に絡んでくる方がいいのか、そのあたりの問題は、経済学、政治学、さらには、社会構造を揺るがすことになりかねない」
と言えるのではないだろうか。
そんな令和の時代から、自費出版系の会社が話題になっていたのは、今から、十数年前くらいの頃のことではなかっただろうか。