都市伝説の自費出版
迷信も都市伝説も、似たようなもので、根拠がなかったり、その根拠があいまいなものなどという定義は同じだが、都市伝説の場合は、
「現代において」
という但し書きが入るだけではないかということだ。
プログレッシブロックの話から、小説における、
「奇妙な味」
というのも、似たようなものではないかと思うのだった。
奇妙な味というのは、そんなに昔から言われているものではない。日本でも、提唱したのが江戸川乱歩という探偵小説作家だということで、ミステリー系が入っていることは確かだろう。
だが、日本における奇妙な味というと、昭和の末期から放送され、今では季節ごとの特番のような二時間で四本のオムニバスドラマが作られているが、
「奇妙な物語」
という形でのドラマを見ていても分かるのだが、奇妙な味を専門で書いている作家の作品のそのほとんどは、短編である。
「短編の名手」
としての地位を揺るぎないものにしている作家が書いているジャンルが、この、
「奇妙な味」
という作品だ。
ちなみに、本作品の作者も、奇妙な味の小説を目指していて、最初は短編ばかりを書いていた。
短編を書く本当の理由は、
「長編が書けない」
という単純な理由だったが、書けるようになると、今度は長編を書き始めた。
だが、書いているうちに少しずつ、作品が短くなり、今くらいの中編に落ち着いてきたというわけだ。
現在のこの作品で、中編と言われるくらいの作品を書き始めて、五年くらいになるだろうか、その間に書いた作品数とすれば、百数十作品ということになる。
令和二年と夏くらいまでは、一日一時間か長くても二時間のペースで書いていたのだが、今は平均、一日四時間のペースで書いている、
乗っている時は、一日六時間くらい書いていることもあるが、慣れてくると結構書けるもので、一日四時間ペースがすっかり板についてきたようだ。
だが、いつまたペースを落とすか分からない。そういう意味で、今書ける時に、どんどん書いておこうと思ったのだ。
年齢的にも、もうすぐ六十歳を意識するくらいになってきた。勝手に逆算してしまうと、やはり、
「書ける時に書きまくる」
という発想は大切なことだと思えてならなかった。
ただ、作者もなかなか思ったような作品が書けているのかどうか、いつも考えている。
「似たような作品にばかりなっていないか?」
という思いはいつも付きまとっているが、自分の作品に対して似たようなものであれば、
「盗作」
という発想はない。
ストーリー展開で出てくる話が、毎回似ているというのは、作者が同じだったら無理もないことで、テーマやコンセプトが違えば、別に問題はないのではないかと考えるようになると、少し気は楽であった。
とにかく、
「質より量」
という発想で書いているのだから、そのあたりのことは、逆に意識する必要はないのではないかと最近考えるようになってきた。
そもそも、このようなことも、かつて書いてきたような気もするし、今後の作品でも、意識的にか無意識にか、同じようなことを書くような気もする。
「時数を稼ぐ?」
というのも、一つの本音だが、ライトノベルのように、無駄な空白がある小説に比べれば、マシなのかも知れないと、勝手に思っているのだった。
そういう意味で、今のライトノベルやケイタイ小説に慣れている人には、作者の小説は、なかなか読むというだけで、ハードルが高いものとなっているのだろうと考える。
それでも、アクセス数が多いのは感謝すべきで、素直に嬉しい限りである。
まだしても作家の話に脱線してしまったが、小説のジャンルも、一人の作家が、一つのジャンルに特化する形で、
「このジャンルなら、私だと言われたい」
という思いを信念として同じジャンルを書き続ける人もいるが、ジャンルにあまり関係なく、いろいろな小説を書く人もいる。
ただ、プロの作家になると、いろいろなジャンルを書く人はあまりいないかも知れない。
それでも、同じジャンルを書いている人を見ていると、その作品群には、ジャンルこそ違え、何か骨格として、背骨のように一本筋の通ったものがあるのではないかと思うのだった。
そんな中で、以前に読んだ小説で面白い発想をしているものがあった。
ジャンルとしてはあまりハッキリと覚えていないが、気になる一節があったので、思い出してみた。
どこから出てきた話だったのか、天体を見てのことだったのだが、これも一種の都市伝説という意味で書いていたような気がする。
「皆既月食が起こるというのが話題になっていて、朝方に皆既月食を見たのだが、その皆既月食になる前、そして、翌日の空に浮かんだ月が、きれいな満月で、これ以上ないというくらいに眩しく光っていた」
という話であった。
その小説では、その出来事を、いかにも都市伝説のように書いていて、都市伝説というものが、何を意味するのかというと、
「いかに幻想的であるかということを、読者に示しておいて、その事実が、最後の大団円にどのように結びついてくるか」
というのが、この小説の一つの骨幹なのではないかと思ったほどだった。
ただ、冷静に考えてみれば、この話は当たり前のことなのだ。
皆既月食というのは、月が短時間の間に、どんどん欠けていき、最後には消えてしまうのだが、すぐに、また現れてきて、最後には元に戻るという現象である。
さぞや、昔の人はビックリしただろう。ただ、月食よりも日食の方がインパクトは強いだろう。
何しろ、空が一気に昼間から夜に変わり、それがすぐにまた昼に戻るのだから、それは怖かったことだろう。
ただ、考えてみれば、それもそれほど驚くことではない。
「太陽を隠すことは雲にだってできるのだ」
ということである。
別に雲によって太陽が隠されたことで、いちいち驚いたり、ましてや恐怖に感じるなどという人がいるわけもない。
しかし、日食のように、いきなり太陽が欠け始めて、昼がさながら、夜になってしまうのだから、当然驚くのも無理はない。
月食にしてもそうなのだが、要するに、日食も月食も、
「影ができる」
というだけのことなのだ。
月食というのは、光を放つ太陽が、地球も月も照らしているが、地球が太陽と月の間に入ってしまって、月に光を与えない。つまり、地球の影で、欠けたりしているのだ。
これは、通常の月の満ち欠けと同じ原理のはずなのに、なぜ月食だけ特別なのかというと、そのスピードがあっという間の出来事だからであろう。
本来なら、定期的な月の満ち欠けであっても、これくらい不思議なこととして考えればいいものを、
「毎回のことだから」
ということで、慣れてしまっているのだろう。
それを思うと、普段慣れていることが、少しでも違った動きをすると、その動きが必要以上に不思議な現象に見えてくるに違いない。
ちなみに日食というのは、太陽と地球の間に月が入ってしまい、月が太陽の影として君臨することで起こる現象だ。
つまり、月食も日食も、あくまでも、自転と公転によっておこる偶然の自然現象なので、見られる地区は限られていて、今の科学では、その発生は容易に予知できるのだ。