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都市伝説の自費出版

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 というのを聞いて、六花は、
「そうなのよ。どこまでが偶然なんだろうかって思う。次の瞬間には、無限の可能性が広がっているわけでしょう。その中から、一つだけのことが現実になって、さらにそこからまた無限に可能性は広がる。だとすれば、可能性の中には、後戻りする可能性だってあると思うんだけど、前に進んだ時点で、今度は、どこが未来なのか。どこからあ過去なのかということを、今からは想像できないということになるのかしらね?」
 と言った。
「その発想は難しいわね。可能性の中に時系列が存在するのか。時系列が最初にあって、そこから可能性は広がっていくのか。どちらなのかを考えていけば、何か、無限の可能性を考える糸口が見えてくるのかも知れないわね」
 とひまりは言った。
 ひまりも六花も、相手がまったく別のことを考えているかも知れないと思うと、そこには、決してお互いに見ることのできない、
「結界」
 のようなものがあるのだと考えるのだった。

                月食の話

「人間の脳が、十パーセントしか使われていない」
 という話は、実はウソではなかった。
 昔から、偉い学者や医学者などが研究してきて、そんな結論に至ったという。そもそも、その話を宇宙人に聞いたという話がおかしなものなのだが、誰かから聞いたのは、間違いのないことだろう。
 その話が本当のことだったのだということを知ったのは、人から聞いたからではなく、本に書いてあったからだった。
 最初にこの話題の本を読んだのは、ひまりが高校生の頃だったと思うのだが、その頃はいろいろな本を斜め読みしていた時期だったので、どの本だったのかということすら覚えていない。
 ジャンルも決まったものを読んでいたわけでもなく、作者も統一性がなかった。人から聞いて、
「この本が面白い」
 と言われて読んだり、本屋に行って、表紙のデザインで、気に入って本を衝動的に買うこともあったくらいだ。
 マンガも読むこともあったが、高校時代は小説だった。中学の頃まではマンガだったのだが、小説を読んでみると、妄想することに目覚めたのか、高校生になってからは、文庫本を買っては読むという形をとっていた。
 本棚を買ってから半年もしないうちに、すでに半分が埋まってしまった。すでに百冊近くは読んでいることになる。二日に一冊よりもペースが速い計算だ。
 本を読むというのは、最初だけ違和感がある。読みながら、何か余計なことを考えてしまうのだ。
 しかし、十ページ近く進んでくると、そこから先は無意識に何も考えずに読んでいた。その時に自分の意思が物語に入ってしまい、妄想が生まれてくる。そこが、マンガにはない、小説の醍醐味というものだった。
 人から勧められた本を読むというよりも、本屋に行って、本の背を眺めていたり、取っていて、表紙を見たりしていると、
「この本、読んでみたい」
 と感じるのだ。
 一日に買う時は、五冊くらい買ってくることもあるが、普段は多くても三冊までだった。
 勝ってきた三冊は、一気に読んでしまう。一週間もかからないで読み終えてしまう。読み終えてしまうと、内容が頭の中でこんがらがってしまって、どれがどの話だったのか、記憶にないくらいだった。
 しかし、ひまりが本を読む意味は、あくまでも、
「妄想の世界に入る」
 というもので、数十ページ読んで、妄想に入ることができなければ、その本はもう読むのをやめるのだった。
 だが、ずっと読まないというわけではない。
 買ってきた本をすべて読み終わって、頭の中が満足感に溢れ、達成感がある間に、前に読めなかった本を読もうとして、本を開くと、前に読んだ時と違って、今回は、自分の世界に入れるのだった。
 この時大切なのは、いくら前に途中まで読んでいるとしても、最初から読むということである。
「真新しい本を、頭から読んでいる」
 というイメージが大切で、達成感と満足感に包まれながら読もうとするのだから、一番いいタイミングである。
 そうやって読んでいくと、買ってきた本を読まずに、本棚の飾りになるようなことはない。
 内容はどんな本だったのか、覚えていなくても、達成感、満足感が得られ、妄想に浸ることができれば、それだけで、立派な読書ということになるのだ。
 ジャンルも適当だといっても、それなりに偏りがある。
 流行りのケイタイ小説であったり、ライトノベルなどの本は絶対に読まない。そしてエッセイなどのようなノンフィクションにも手を出さない。しいてノンフィクションを読むとすれば、戦国武将の伝記のようなものであったり、歴史書のような、
「歴史の勉強」
 として読む本は別である。
 好きな小説としては、昔の探偵小説であったり、SF、あまり怖くないホラー系の小説などを好んで読んでいた。
 最近は、恋愛ものも結構読んでいて、不倫や愛欲と言った、ドロドロしたものも、中学の頃は敬遠していたが、高校に入ってからは読むようになっていた。
 だが、どうしても苦手な小説もある。サスペンス系や、ファンタジー系は読んでいて難しい。
 自分がゲームでもしていれば、ファンタジー系の小説が読めたり、二時間サスペンスなどのドラマを見ていれば、サスペンス小説も読めるのかも知れないが、どうしても、最初から敬遠してしまうのは、いろいろな小説を読み慣れていることで、読み終わってガッカリしそうな小説は想像がつくので、最初から見ようという気が起きないのだった。
 それなのに、
「なんでもまんべんなく読む」
 と言っているのは、自分の好きな小説こそが小説だという意識があるからではないだろうか。
 小説をいうものが、妄想できなければ、小説ではないと思っている。
 そういう意味で、ノンフィクションというのは嫌いだ。基本的に作者の作文ではないか。人のために書いているわけではなく、まるで自己満足のためだけに書いていると思うからだ。
 だが、この発想は本当は間違いだ。
「小説というものを、もし自分で書いてみようと思うのであれば、ノンフィクションは反俗な気がする」
 と思うのだ。
「小説というのは、自分で作り出すものであり、実際にあったことをただ書き連ねるだけでは何が満足できるというのか。それだったら、エッセイや脚本でいいような気がする」
 と感じるのだ。
 だから、自分でも、ノンフィクションは読まない。読み始めると、腹が立ってくる気がするからだ。
 妄想させてくれるわけでもなく、読んでいくうちに、作者の書きたいことを書いているという思いが、あからさまに感じられるからだった。
 そういう作品は、国語の教科書だけで十分だ。テキストや、教材ではないのだから、小説として読むものに、ノンフィクションはありえないと思うのだった。
「何だかんだ言って、ひまりはわがままだからね」
 と、よく六花に言われた。
「そう? 私は思っていることを思うままに感じたり、したりしたいのよ」
 というと、
「そうよね、それがいいと思うわ。例えばね、プロ野球の選手のピッチャーがね。キャッチャーとサインの交換とかするでしょう?」
 と、六花がいきなり、いつものたとえ話を始めた。
作品名:都市伝説の自費出版 作家名:森本晃次