果てがない河
王国編5 『訪れた者』
じゃらん、となるのは錫杖の鈴である。
歩みつつ、地に突き立て、その僧らの一歩毎に乾いた金属音を並んで立てる。
僧は、数多に列を成していた。
縦に、横に、そしてそれらが一歩征く毎にじゃらんと並び、音を立てる。
それは王きみの先を祓う列。
膨大な僧の後を行くのは延のし行く巨象の列と、馬の列。
そしてその殿しんがりに続くのが輿こしであり、この王国に至る新たな風で、それまでの治世に終わりを告げようとする『枯れた王国』へ延べられた『手』の象徴であった。
予てかねて、あるいは嘗てかつてというべきか。
この世で『買われた王国』などと云うものは存在しなかった。
全てが諍いいさかい、謀略、刃の暗躍――そうしたものにより塗り替えられるのが時の権力の常であった。
だからこそ、民にとってはあるいは僥倖であったかのかも知れない。
なにしろ戦の地を踏む事なく、無碍に殺される事もなく、嘆き、あるいは残してきたものを嘆かせる事もない。
――今のところは。
だから、だからこそ。
民は地に伏す者もいれば、家に籠もり『列』に背を向ける者もいる。
だがいずれにしても其処に在るのは『列』とは対照的な重苦しい閉塞感に似た、沈痛な諦念が殆どであった。
王国が興きて幾星霜、世代は変わり吟詠詩人が謡う事はあれど、今としてはその『興きる様』をつぶさに知るものはいない。
そのときにきっと流れた血の事は忘れ去られ、手応えのある『今』として残るのは、治政者の手腕とそれに対する漠然とした評価。
そして湖の国の王は、代々それに応えてきた。
有能な王たちである。
だからこそ人は王の治政を頼み、受け入れ、自らの生を安寧のうちに謳歌してきたのであるから、
だからこそ、
その治政を超える『よいもの』がそう簡単に手に入るわけではない事は容易に想像がつくのであって、
だからこそ、
この未曾有で圧倒的な『暴力なき侵略者』たる『列』に対しては『漠とした恐怖』を抱かざるを得ない訳なのである。